救済は未だ遠く
ありとあらゆるものが、まるで水泡のように弾けて消えていく様を、少女はその目で見た。
世界は救われない。生命は何よりも暗く、何よりも冷たい海底へ落ちていく。
すべてがゼロになる、恐ろしい光景を、彼女の目はしかと見た――。
「――ッ」
ああ、全部、悪い夢だったんだ。少女――フリーナ・ドゥ・フォンテーヌは乱れた息を繰り返しながら、夜明けの到来を知る。窓の向こうには闇から光へ移りゆくフォンテーヌ廷の街並みが広がっている。フリーナは改めて深呼吸をした。
彼女はこの国の「神」である。魔神としての名はフォカロルスといい、風神バルバトス、岩神モラクスといった神々と共に「七神」に数えられる、広大なテイワット大陸でも特別な存在だ。
七つの元素が密接に絡み合うことで構成される世界――テイワット。そんなテイワット大陸に存在する七つの国のひとつ、フォンテーヌは水と正義の国だ。果てしなく広がるのは美しい空と海。生命力に満ち溢れた大地。そこで生きる多くの人々。それこそが、水神フリーナの守るべきすべてだ。
だが、今回も彼女は悪夢に魘された。素肌は汗ばんでいるし、目尻には涙の跡がある。満足に眠れない日が続いている。並の人間であれば、身体を壊してしまうだろう。だが、彼女の肉体は人間のそれではない。華奢な身体。少し力を込めれば、折れてもおかしくないほどに細い四肢。そこに在るのは「神」としての血肉。彼女は何百年も前から、今の姿を維持している。
「……はあ」
彼女の終わることのない日々は、幸福で満たされたものでは無かった。人間の中には、いわゆる不老不死に憧れる者も少なからずいる。だが、フリーナから言わせてみれば、終わり無き日々には、一言では言い表せない苦痛が伴う。
しかも彼女の場合、大きな秘密を抱えて生き続けているのだ、そう、最高審判官にして水龍――ヌヴィレットにさえも明かすことの出来ない秘密を。
もし、誰かに「すべて」を話せたのなら――フリーナは重い身体を起こし、窓辺に立った。
「……」
東の空からは、眩い陽が昇りつつある。まだ冷たい空気も少しずつ温まって、多くの人々がこの街を闊歩し出す頃には、清々しい風が吹き付けてくるだろうし、青々とした木々の枝葉も囁き出す。そんな、この美しい街を、そして、そこで生きる民の為に、フリーナは「神」で在らねばならない。たとえ、四肢をもぎ取られることがあっても、その魂は「正義」の為に捧げられる。世界は残酷に創られていることを、フリーナは身に沁みて知っていた。仮に、あの太陽が二度と目覚めず、大地が永遠の闇に飲まれようとも、自分は変わらず「魔神フォカロルス」でなければならない。それが「フリーナ」の生きる理由なのだから。
フリーナは窓に背を向けた。悪夢は今なお、少女の足首を掴んで離さない。何もかも守れなかった世界。今までの数百年がすべて無駄になるバッドエンド。夢は夢なのだ、と何度自分に言い聞かせても、痛みと苦しみと失望が少女の全身を駆け巡る。まるで、身体中を流れる赤い血が全部凍り付いたかのように。
気怠い身体のまま、フリーナは私室を離れた。
この国――フォンテーヌの為政の中心部、パレ・メルモニア。その最上階にあるのが、フリーナの部屋だ。水神として民を導き、守る。その役割を果たす為にあるその部屋を出て、何処へ向かうのか。フリーナ自身にも分からない。これといったあても無く、朝の散歩をするつもりで階段をひとつひとつ降りていく。
その途中、メリュジーヌと呼ばれる人間とは違った種族の者と何度か顔をあわせた。彼女たちは純粋無垢な心を持ち、戦う力こそ秀でていないが、人では感じ取れないものを感じ取る能力に長けている。故に「マレショーセ・ファントム」として、人間社会に関わる者も少なくない。メリュジーヌたちは揃ってフリーナに笑顔を見せた。一切の濁りもない笑みだ、フリーナも彼女らに微笑んで、手をひらひらと振る。
屋外に出ると、唐突な強風がフリーナの長い髪や衣服の裾を弄んだ。道行く者も同じだ。フリーナは空を仰ぐ。雲は綿のようなものが幾つか浮かんでいるだけで、雨の心配は無さそうだ。彼女を含め、朝の街を進む者の手に傘は無い。何処からか、小鳥の囀りも聞こえる。ああ、もう、そんな季節が来たのか。フリーナはその高らかな歌声に耳を傾けつつ思った。
そのまま、道なりに進む。何の問題も無いように見える正義の都。だが、それでも「予言」は遠い時代からこの国を蝕み続けてきた。フリーナは「神」として打開策を探し続けているが、現状、これといった策はない。鏡に映るもうひとりの自分が言ったように、耐えねばならない――答えが見い出せ、フォンテーヌが救われるまで。
「あっ、フリーナさま!」
「えっ」
彼女の意識を引き戻したのは、まだ幼い少女の声だった。咄嗟に振り返ると、何の影も見当たらない、無邪気な笑顔がその目に映し出される。少女の後方から駆け寄ってくる若い女性。恐らく、母親だろう、この国の神であり、舞台に上がれば皆を魅了する大スター、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌに我が子が不躾な真似を、と慌てている。申し訳ありません、フリーナ様。女性が何度も頭を下げるので、フリーナは「顔を上げてくれ」と苦笑する。自分は確かに彼女らの上に在る存在だ。だが、何も絶対的忠誠を強いてきたわけではない。神座を得て数百年の日々を過ごしてきたが。フリーナはいついかなる時も「暴君」ではなかった。
「フリーナさまは、おさんぽ?」
「え? あ、ああ、そんなものだね。……キミもお母さんと一緒に朝の散歩かな?」
「うん、そうだよ!」
少女が笑う。
「そうかい。今日はとても良い天気だ、きっと良い一日になるだろうね。ああ、この僕に会えたのだから、良い一日なのは確定かな? ハハッ」
フリーナはそう言って、少女の頭を撫でた。母親譲りなのだろう、少女の髪は艷やかな栗色をしている。
「わたし、いつかフリーナさまのぶたいがみたいの! ママがおしえてくれたんだ、フリーナさまのおうたがとってもきれいだって!」
「へえ、随分と嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
少女の母親が頬を赤らめる。娘の言った通りらしい、フリーナは春風のように柔らかな笑みをそちらに向けた。
「……いつかエピクレシス歌劇場まで観に来ておくれ。きっと、キミにとっても充実した時間になると思うよ」
フリーナはそう言うと、彼女たちに右手を振った。ひらりと背を向ける。そろそろ朝の散歩も終わりだ、パレ・メルモニアに戻らなければ。母娘の視線を感じ取りつつ、フリーナは来た道を戻っていく。
晴天のフォンテーヌ。どこを切り取っても、平穏そのもの。これがいつまでも続くように、僕は耐えなければならない――フリーナは覚悟を新たに、己の居るべき場所へ進む。「正義の神」として、この「正義」を貫き通さねば。数百年後のフォンテーヌが、いまと同じ姿を維持出来るように。
◇
パレ・メルモニアへ戻ったフリーナは、雑務処理に時間を費やし、それが片付くと階下にあるヌヴィレットの執務室に向かった。彼は水元素の龍王である。簡単に言えば、人間とは大きく違う生命体。七神をも超える力を本来であれば持つ、特別な存在だ。大きな扉を開けて中に入ると、ヌヴィレットは定位置に座し、そのデスクには膨大な量の書類が積み上げられている。彼でなければ、これを崩すことは出来ないだろう――フリーナは頭の片隅でそんなことを考えた。
「それで、君は私に何か用があるのか」
彼はフリーナのことを歓迎はしない。いつも通りの対応と言って良い。
「いや、少しキミの顔が見たくなってね……」
「昨日も一昨日も、私たちは顔を合わせたはずだが?」
「別にいいじゃないか、ヌヴィレット。そんなに冷たいことを言わないでくれ」
フリーナは大袈裟に肩を落として見せた。そのまま、この部屋に来ると座るソファに腰掛ける。
「……見ての通り、私は仕事中だ」
「まあまあ、少しくらい雑談に付き合っておくれよ、ヌヴィレット。どんなに有能な人物だって、働き通しでは効率も悪くなるものだよ?」
「……そうか」
ヌヴィレットは、意外にもすんなりとフリーナの発言に頷いた。独特な光を灯す双眸が、確かに少女の姿を捉えている。
「それで、君は何の話を?」
「うーん、そうだね……、ああ、そうだ、僕は今朝、散歩に出たんだ。そこで幼い少女とその母親に会ったよ。幼子も僕を当然のように知っていたんだ。人気者過ぎて困ってしまうよ」
「そうか。……君は、特別だからな」
彼は静かに返す。フリーナを見つめる眼差しは、数秒前のそれよりもずっと優しい。
「そうだよ、僕は特別だ」
なんせ、正義の水神だからね!
フリーナは胸を張る。ヌヴィレットは彼女から目を逸らすことなく、それを細めた。穏やかに微笑を浮かべている。公正無私を貫く、生真面目な最高審判官が。フリーナは何故か左側の胸が騒ぐのを感じた。ヌヴィレットは、どんな相手を前にしても冷静さを欠かない男である。旧知の者に裁きを下す時も、見知らぬ者を裁く時と全く同じ目でそれを執り行う。もし自分が――フリーナ・ドゥ・フォンテーヌが法廷に立つ未来が来たとしても――彼は変わらない目で、変わらない声で、判決を下すのだろう――。
「ねえ、ヌヴィレット」
「何だ?」
「今度、僕と一緒に散歩をしようよ。朝だったら、ちょっとぐらい時間もとれるだろう?」
「……何故?」
「何故、って。キミも僕のように民と交流を深めるべきだと思ってね。キミは人間を裁く、最高審判官だ。人間というものをもっともっと知るべきだと思うよ。それはいつか必ずキミを導くものになる。……神であるこの僕の言うことだ、きっと無駄にはならないさ」
ね、と同意を求めるフリーナのつぶらな青い瞳。それは左右で若干色合いが異なっていて、独特な魅力を秘めているようにヌヴィレットは思った。
「……それは……一理あるな」
「だろう?」
「ああ」
世界が水底へ落ちる夢。
誰も救われないまま、滅びへ至る夢。
いまも変わらず、少女のこころを縛り付ける悪夢。
それに手を差し伸べてくれる存在が「在る」としたら、それは――。
「ヌヴィレット」
この国の女神が微笑む。
それは、きっといつか、すべてを救うと誓った少女。
「……約束だよ」
ふたりの居るパレ・メルモニアの外では、太陽が変わらず世界を照らしている。目が眩むような強い光で。
フォンテーヌの「結末」はまだ先だ、あの幼い少女が成人を迎え、滞り無く歳を重ねて、この世界に別れを告げるよりも、ずっとずっと先にある。
この世界――テイワットの運命を大きく変えるであろう「降臨者」が降り立ち、正義の国――フォンテーヌに足を踏み入れる、遠い未来。そこでフリーナとヌヴィレットは、来訪者たる若者と絆を結ぶことになるのだろう。
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