先生


まだガキじゃねえか、という低い声に意識が浮上する。
譲介が恐る恐る右目の瞼を上げると、冴えた月のような色のコートが目に入った。
今の今までこちらを好き放題になぶっていた男たちの口から、真田先生、と言う名が聞こえた。
失せろ、と一言。
「真田先生」が口を開くと、男たちは静かになった。
親父の借金を取り立てに行くから覚えておけよ、という捨て台詞と共に、この場を後にする足音が聞こえてきた。
助かった。
譲介はとっさにそう思い、この根性のなさはつくづくヤクザには向いていないなと思う。
立ち上がれるだろうか。
痛めつけたい相手を複数人で取り囲んでサンドバッグにして、弱るところまで弱らせてから、地面に投げ出し、それから腹に蹴りを入れる。譲介が高一で高校を中退するまで、カツアゲをする時に良く使っていたやり方だった。
男たちが去っていくと、あちこちの痛みがぶり返してきた。
地面に手を付いた。腕は折られちゃいないようだけれど、身体を起こすことが出来ない。息を吸い込むと咳き込んでしまう。
「おい、生きてるか。」
額に何かが当たる感覚があった。
瞼を持ち上げると、革靴の爪先が目に入った。
僕が生きてるか死んでるかなんてお前には関係ない、と口に出そうとしたが、声が出ない。
小さい頃からギャンブル狂のろくでなしとの二人暮らしで、一方的に殴られるのには慣れている。それでも、逃げ切れずにコテンパンに伸されたのは久しぶりだ。
今夜はツイてなかった。普段ああした輩から追い駆けられた際の逃げ道にしているフェンスの穴が、補修されて使えなくなっていたのだ。あっという間にレスラーのような大男が譲介の背に回って、羽交い締めにされたままここまで引きずられて連れて来られた。
とっさに庇った内臓はまだ大丈夫そうだが、頭はガンガンする。それが、地面に引き倒された際に頭を打ったせいか、蹴られたせいかは分からない。父親の借金を返すよう譲介に迫って来た男たちは、こちらに致命傷は与えないようにしている様子だった。
「名前は、言えるか。」
自己紹介なんかしてる場合か、と思ったが、こちらの頭がイカレてないかを確認するためだろう。
あいつらに僕がやられるのをいつから見ていたのかは分からないが、親切ごかしの男に口を開くのも億劫だった。それでも、こちらが名前を言わない限り、目の前の男がここからどこへも行かないような様子が感じられた。
「譲介。」と下の名前を伝える。
「今日は何日だ。」
「……十二月一日。」と譲介が言うと、ニャア、という声がして、頬に生暖かく妙にざらついた何かで舐め上げられる。
猫だ。
「おい、ちょっかい掛けるのは止めとけ。」
まさか、猫に声を掛けたのだろうか。
男は、何がおかしいのかクックと笑い、「こいつに気に入られたようだな。」と言った。
地面に倒れた見知らぬ人間を前に独り言を言い出した男に、眉を顰めるだけの気力も残っていない。
「ここでこのまま寝てたら明日には死んでるかもしれねえってのは分かるか?」
裏路地に足を踏み入れた物好きな男の声には、あちら側にいる男たちを従えるだけの圧力があった。まあ、あちらとこちら、と言っても、もう譲介の立場は境界線上だ。
「……分かります。」と譲介はとっさに敬語になる。
寒くはないと思っていたが、急に寒気がしてきた。
「立てるか?」
無理に身じろぎをしようとすると、覿面にあばらが痛んだ。腕で庇うまで、二、三発の蹴りを食らったのが今更に利いてきている。
「無理です。」というと、男は「救急車を呼ぶか?」と言った。声が近い。地面に膝を付いてこちらを伺っている。
「――っ、」
呼ばなくていい、と言おうとすると、やはり身体の痛みが邪魔をした。
とっさに身体を丸めた譲介に、男は頭より内臓か、と呟く。両方、と言いたかったが、口を開けば呻き声しか出ない。
「呼ぶなら一度、呼ばねえなら二度瞬きしろ。」と男は聞いて来た。
目を見開くと、男の顔が見えた。
長い髪で、顔が半分隠れている。
答えは不要、だ。譲介は二度瞬きしてから、そのまま起きているのが億劫になって目を瞑った。さっきのボクサー崩れの男たちを前にした悪足搔きのように、この顔に向かって唾を吐くことも出来なくはないが、譲介はそうしたいとは思わなかった。
口を開きたいとも思わない。
僕をここから連れ出して、と今日会ったばかりの正体不明の男に、三つのガキのような甘ったれたことを言い出しそうな自分が怖かった。
これまで一人で生きて来たプライドを捨てて足元に縋るくらいなら、見捨てて去られる方が余程良かった。
「っ、たく、図太いヤロオだな。――寝たら死ぬと忠告したぞ、オレは。」
よいせ、という声と共に膝下と背中に手を当てられる感触がする。
「まだ軽いな。」という言葉と共に、身体を持ち上げられた。
ふわりと浮いた、と思ったのもつかの間、そのまま、男の背に担がれる。
月のように見えた白いコートは、十二月の夜風に晒されたまま冷たく、どこか埃っぽい匂いがした。
「暴れるなよ。知った医者のところにおめぇを連れて行く。」
男の言葉に、何をやった、とまだ問われていないことに気付いた。
普通の人間は、譲介がこれまでに何をやったか、何をやらないか、何が出来るかでジャッジして、助けるかどうかを決める。
ヤクザが、先生、と言う職業はそう多くない。
教員などは対象外で、政治家か、医者か、弁護士だが、どれも、こんな裏路地の面倒に首を突っ込んで来そうな職業ではなかった。
誰もが、面倒に関わるのを避けようとしている。
もっと小さかった頃、譲介があのアパートの一室で父親に殴られている間、目の前の玄関のドアから誰も部屋に入って来なかったように。
野垂れ死にした死体を見つけてから、どんな生き方をしていたのかと囀る、口先だけの奴らに今更助けを乞うつもりもなかったが、目の前の猫を連れた男は、そうした人間とは違う。そんな気がした。

あんたは誰。

譲介は自分の身体を持ち上げる男にそう聞こうとしたが、意識は薄れていった。


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