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精神科クリニック(小説)(浅野浩二・作)
純は悩んでいた。それで死のうと思った。純の悩みは、彼が死んでも、それは客観的に見ても人が納得するのに十分過ぎる苦しみだった。病気、失恋、人生の挫折、孤独、職無し。それらは相互に作用しあっていたが、病気で働けないため、収入がないのが、一番大きかった。職が無く、無収入なのだから、このままいいけば、アパートの家賃も払えず、やがてホームレスになることはわかりきっていた。彼は今まで何度も精神科クリニックにかかってた事があったが、精神科医なんて、ただ話を聞いて、薬を出すだけで、今まで純は精神科にかかって、治ったことは勿論、気休めになった事も一度もなかった。それで純は精神科医を軽蔑していた。
「あんなやつら、何もわかってないし、理解しようともしない。それで薬だけ、どっさり出す。他人の悩み事を興味本位で聞いて楽しんで、威張ってやがる。治らなくたって責任を取る義務も無い。脳外科医とか心臓外科医とかなら、大変な技術が必要で、手術も重労働だ。なのに、もし万が一ミスしたら訴えられる。それに比べると精神科医なんて、そもそも手術は出来ないし、医学知識もあやしいもんだ。あんなやつら、そもそも医者なんて呼べるのだろうか。そのくせ、世間では人の心理を分析できるインテリなんて思われている。全く鼻持ちならないやつらだ」
純の死ぬ覚悟は十分できていた。
純はビルからの飛び降りで死のうと思っていた。なぜ、飛び降りに決めたかというと、飛び降りなら、新聞の三面には載るだろうと思ったからである。
「自分の人生には何もなかった。このままでは自分がこの世に存在した意味が全くないじゃないか。せめて一度くらい世間に自分が存在したことを知られたい」
純はそう思った。とうとう彼は死を決意した。
そして死を決意した日から、毎日ビルを物色しだした。
ある日のこと、彼は、ちょうど頃合いのビルを見つけた。このビルなら確実に死ねる。高さも十分ある。彼はほっとしたような、気抜けしたような気持ちだった。帰り道にある雑居ビルの三階に、「××精神科クリニック」の看板が純の目にとまった。彼は精神科医を軽蔑していたので、ふん、と不愉快な気持ちになった。看板に、「あなたの悩み、必ず解決します」と書いてある。ほーと純は驚嘆した。
随分と自信満々じゃないか。こんなのは誇大広告だ。開業したてで患者が来ないもんだから、こんな事、書いたんだろう。あるいは、ちょっと頭のおかしい精神科医なんだろう。そう純は思った。実際、精神科医には頭のおかしいのが多いのを純は今までの経験で知っていた。
「じゃあ、死ぬ前に一度かかってみようか。それで遺書に、『無能な××精神科医を怨みつつ』と書いてやろう」
と思った。それでビルに入って三階のクリニックに入った。患者は一人もいなかった。やはり無能だから患者が来ないんだろう。受け付けの女性もいない。純は受け付けの窓口から、
「お願いしまーす」
と大きな声で人を呼んだ。すると、のっそりと一人の中年男が出てきた。白衣を着ている。
「治療を受けたいんですが・・・」
純か言うと、彼は微笑して、
「私が院長です。よくいらっしゃいました。どうぞ」
と答えた。純は診察室に入った。診察室には何もない。レントゲンも無ければ、エコーもない。何も無いのが精神科クリニックである。純は院長と向かい合って座った。純は、どうせここも無能だろうと思いつつ、生きた医者の前に座ると、どうかこの医者ならば多少なりとも生きる勇気と意味を与えてくれはしないか、との一抹の藁にもすがる思いが起こってきた。純がそっと目を上げると、院長の顔は実にやさしそうだった。
「どうしましたか?」
院長が聞いた。その、やさしい口調は相手の警戒心をなくした。あ、あの、と純は口篭った。
「遠慮しないで何でもお言いなさい。誰にも言いませんし、医者には患者のプライバシーの守秘義務があります。悩みを言う事で気持ちが少しは楽になりますよ。これは精神医学用語でカタルシスというんです」
純は半分、演技しながらも、目に涙を浮かべながら、すがるように口を開いた。
「あ、あの。先生。僕、もう死にたいんです」
純は涙をポロポロ流しながら言った。
「どうして死にたいのですか?」
医者はやさしい口調で聞き返した。
「僕はもう生きていく気がしないんです。生きていく事が死ぬほどつらいんです」
純は精一杯、訴えるように言った。
「どんなことがつらいんですか?」
院長はやさしい口調で聞いた。聞かれて、純は病気の事、収入の無い事、人生に夢の無い事、彼女にふられた事、友達がいない事、などを、正直に話した。院長は黙って聞いていた。そして純が話し終えると、おもむろに口を開いた。
「それはつらいでしょう。死にたいと思うのも無理はないと私も思います」
純は、見えすた口先だけの偽善的な共感に、やっぱり、ヤブだな、と内心、失望した。
「しかし、死にたいと思いつつもあなたは今まで生きてきた。どうして死ななかったのですか?」
「そ、それは・・・」
と純は言いためらった。
「あなたは死にたいと思いつつも、生きたいと思っていたんじゃないんでしょうか?死にたい、というあなたの思いは、何としてでも生きたいという思いに他ならないんじゃないでしょうか?」
「そ、そうです。先生」
言って純は涙を流した。
「あなたは死にたいと思いつつも、死ぬ勇気が持てなかったのでしょう。死ぬには大変な勇気が必要です」
「そ、その通りです。先生。僕は死にたいけど死ぬ勇気が持てなくてズルズル生きてきたんです」
「わかりました。では治療をします。では、こちらの部屋へ来て下さい」
そう言って院長は純を立たせた。
院長は診察室の奥にあった戸を開けた。
「さあ。お入り下さい」
純は言われるまま、その部屋に入った。そこも治療室と同じように何もなかった。ただ部屋の真ん中に何か縦長の器具のついているベッドがあった。等身大の鏡くらいの大きさだがベールで覆われているため何かわからない。
「さあ。この上に仰向けに寝て下さい」
院長に言われて、純はベッドに仰向けに寝た。純は、どうせ、たいして効果の無い森田療法か催眠療法でもやるんだろうと思った。
「もうちょっと頭を前に出して下さい」
純は何をするのか疑問に思ったが、もうどうでもいいや、と思っていたため、言われたように仰向けのまま、首を前に出した。ちょうど器具の所に首が来た時、
「はい。その位置でいいです」
と院長は言った。
「ちょっと手と足を縛らせてもらいます」
そう言って院長は純の両手と両足をベッドの脚に縛りだした。随分、おかしな事をやるものだな、と思いつつも、無気力な純は、されるがままに身を任せた。院長は純の手足をベッドに縛りつけると、サッと縦長の器具を覆っているベールをとった。純はびっくりした。顔の上に鉄の刃が重そうに吊られている。
「な、何ですか?これは?」
純は冷や汗をたらしながら聞いた。院長はおもむろに純の顔を覗き込んだ。
「ふふふ。見てわからないかね。ギロチンだよ」
「こ、こんな物に僕を縛りつけて、どうしようっていうんですか?」
「治療だよ。君は死にたいけど死ぬ勇気が持てない、と言ったね。確かにその通りだよ。死ぬには大変な決断がいる。だから僕はその決断の手助けをしてあげようというんだ」
院長は薄ら笑いしながら言った。
「ウソでしょ。冗談でしょ」
純は真っ青になって言った。
「いいや。医者は、どういう治療をしてもいいという裁量権があるんだ。だから私は、どういう治療をしてもいいんだ。君は死にたいからここに来たんじゃないか。私も君の性格では、ウジウジ悩んで、苦しみながら無意味に生きるだけだと思う。いっそサッパリ死んだ方が君のためだと思う。だから、一瞬にして楽に死なせてあげるよ」
「わ、わかった。そうやって、死ぬ時の恐怖を体験させれば、死ぬのが怖くなると思っているんでしょう。なるほど。少しは考えましたね。でもそんな一時のふざけた体験は、一時的な効果しかありませんよ。どうせ、その鉄の刃は発泡スチロールか何かの作り物なんでしょう」
「本物だよ。じゃあ、証明してあげよう」
と言って院長は近くにあった人参をとってシュッと刃に当てた。人参はスパッと切れて先がポトンと落ちた。
「どうです。本物でしょう」
「ははは。なかなか本格的ですね。しかし、人を殺したら殺人罪ですよ」
「いや。君の意志で君は死ぬのだから、殺人罪ではない。殺人幇助罪だな。しかし、それも、そもそもわからなければ、罪にはならないじゃないか」
「ウソだ。先生も冗談がすぎますよ」
純は恐怖心を隠すように平静な態度を装って言った。
「冗談ではないのだ。事実を知らないまま死ぬのは、かわいそうだから死ぬ前に本当の事を言っておこう。私も最初はきれいごとを言う一応、真面目な精神科医だった。しかし、うつ病患者を長く診ていると、いつまでも、どっちつかずで、苦しんでいるだけだ。彼らにとってこの世は生き地獄なんだ。ならいっそ、死なせてやった方がいいと思うようになってね。それに、死にたいなどとウジウジ言ってるような弱虫が私は生理的に嫌いでね。彼らのグチを聞くのも、もうウンザリだ。勿論、私だって初めは抵抗があったが、慣れてくると何でもなくなってしまうんだよ。医者はみんなそうだ。いつも人の死を診ているから、死に対して感覚が麻痺してしまうんだよ。それに私はカ二バリズムの趣味があってね。人肉を一度、食ったらもう、やめられなくなるんだよ。さあ、私の言ってる事が本当だとわかっただろう」
純は背筋がぞっとした。
「や、やめてください」
純は大声で叫んだ。
だが院長はニヤニヤ笑っている。純は必死に身を捩って暴れた。
「ふふふ。私にはサディズムの趣味もあってね。人間を殺すのが、この上なく楽しいんだよ」
純はタラリと冷や汗が出た。
『落ち着け』
と純は自分に言い聞かせた。純は忍術に関心があって、縄から抜ける練習をしてみたことがあった。何回か成功した事もあった。純は院長に気づかれないように、院長に見えない方の片方の手の縄抜けを試みた。やっとのことで何とか成功した。
「先生。わかりました。ちょっと来て下さい。死ぬ前に僕の遺言を聞いて下さい」
「ん。何だね」
と言って院長は純に顔を近づけた。院長が顔を近づけたので、純は思い切り院長の顔を殴りつけた。サディストのほとんどが、そうであるように院長は弱々しく、一撃でふっとばされて転んだ。純は急いで自由になった片手で反対側の手の縄を解き、両方の足の縛めも解いた。院長がムクッと起き上がって近づいてきたので、純は院長を突き飛ばした。必死になってる人間の火事場のバガ力は強い。純は自由になると、一目散に逃げだした。走りに走った。後ろを振り返ると院長が、
「待てー」
と叫びながら追いかけてくる。純は走りに走った。
ようやく、コンビニが見えてきたので純は入った。
「いらっしゃいませー」
髪を茶色に染めた、かわいい女の店員がいた。
『ああ。人間がいる。俺はまだ生きている』
純は、その当たり前の事に感動した。
『生きよう。何としても生きよう』
そう純は誓うように思った。
結果として、純の、うつ病は、その一回の、体験で、きれいさっぱり、治った。
院長が、本当に、狂人だったのか、それとも、あれは、患者の、うつ病を治すための、芝居だったのか、それは、純には、わからない。
平成21年4月13日(月)擱筆
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