とんてんかんてん
小豆長光が打たれている。それも山鳥毛の目と鼻の先で。
奇しくもそのときの山鳥毛はちょうど展示期間中だった。二階の展示室の中央、専用のケースの中で、まんじりともせず鋼が打たれる気配を探っていた。もう閉館時間を過ぎ室内に人はいない。いくら近くともここからでは鍛刀場の様子をうかがうことはまず無理だが、静まりきった展示室では、一振りの刀が打ち上がる熱気を、何か新しいものが生まれる予兆を、ぼんやりと感じとるくらいのことは古精の身ならばできるのだった。音として明確に知覚できるほどではない。ただ槌が熱した鋼に打ち下ろされる、その衝撃がさざなみのように空気を震わせるのを肌で聞いていた。
きん、かん、かん……きん、かん、かん……
暇があれば鍛刀場に潜り込んで作刀の様子を眺めているので、残響からでも金属の鋭い音を聞き取ることができた。脳裏では炉に火が燃えている。火の粉が散っている。槌の一打ちごとに不純物が弾け飛ぶ。
刀剣をつくることは純化させることだ。鋼を伸ばし、折り返し、細く、鋭く鍛錬する。だから刀はよく切れる。
いま打たれている刀は小豆長光として作られていた。とうの昔に失われた上杉謙信の愛刀、川中島の合戦で三太刀七太刀を成し遂げた名刀、そうやって語り継がれた刀を現代に蘇らせようというコンセプトだった。金を集め、刀工を用意し、ついに今日から作刀が始まった。
当初そのプロジェクトを聞いたとき、山鳥毛は複雑な感慨を覚えたものだった。山鳥毛は「小豆長光」の元となった謙信の刀は知っていても、「小豆長光」という刀それ自体は知らなかった。「小豆長光」は人が作り上げた物語だった。謙信と信玄、両雄一騎打ちに人々は熱狂し、夢を見て、小豆長光は生まれたのだ。なるほど確かに上杉に縁のある刀としてくすぐったさも覚えたが、それでも小豆長光は山鳥毛にとって見知らぬ存在だった。
不躾さに怒りを覚えるには失われたのがあまりに昔であるし(江戸の初めにはもう行方知れずだったはずだ)、諸手を挙げて喜ぶには山鳥毛はあの刀と親しすぎた。謙信公に最も重用されていた彼を、山鳥毛は嫉妬もしていたし愛してもいた。一時は朽ちるまでここにあるのだとすら思っていた家の、一番鮮やかな思い出が彼だった。
どこで斬ったのかおざなりに拭っただけだったのだろう。館に帰ってきたとき、彼の刀身には擦過傷のような血が付いたままだった。謙信公が手づから手入れをするのを二振りで背後から眺めていた。
「どんな感じだ?」
「んー、こそばゆいかな」
軽く小突いたら小突き返された。蝉がよく鳴いていた、夏の日のことだった。
彼との記憶は何でもない日々のことが大半を占める。様々な事件や戦が二振りの上を通り過ぎていったが、それでも覚えていることは、喧嘩をしたときのことや雪合戦まがいのことをしたときのことだった。記憶は反復により強化されるというが、それが本当ならば山鳥毛は彼とのたわいないことばかり思い出しては肴にしていたのだ。
それでも追憶の背後から、鋼の爆ぜる音が追いかけてくる。たとえかすかな気配でも無視しがたかった。目尻を押さえて小さくうめく。本当ならば、今ごろ山鳥毛は鍛刀場で鍛錬の様子を眺めているはずだった。複雑だろうと嬉しいものは嬉しいものだった。人知れず失われる刀が大半のなかで、語り継がれる彼は僥倖だった。打たれた刀はそのまま山鳥毛と同じ場所に所蔵されると聞いているから、まごうことなく新たな同胞なのだ。完成まで見届けようと決めていた。そのつもりだった。だが閉室しても山鳥毛の足は動かなかった。その場に立ちすくんでしまった。
この前、展覧会に出品されるとかでこちらを通りすがった姫鶴一文字を無理を言って引き止めた。あからさまに嫌な顔をされたが、個人的な話だと言えば渋々一泊だけ逗留してくれた。
ひとに聞かせる話でもなかったので、博物館を出て吉井川沿いを散策した。梅雨のはざまの珍しく晴れた夜だった。草を踏み分け歩いていると、忘れた頃に国道2号線を走る車がヘッドライトを二振りに投げかける。
「田舎……」
「米沢もだろう」
「ここよりは都会だしぃ」
川風が姫鶴の長い髪を揺らす。
小豆長光を打つのだと伝えると姫鶴はそっと眉根を寄せた。
「悪趣味」
山鳥毛は小さく笑った。この歯に衣着せぬ物言いに救われることは多かった。
「それで何? 今さら思い出でも語り合おうって?」
「ああ」
呆れたように「はあ?」と言われた。ガラの悪さも変わらない。
「何回忌だろ」
「四百回忌は超えるな」
「そりゃ新しく打たれもするか」
ばさっと髪を肩に流し、姫鶴はその場にあぐらをかいた。山鳥毛もつられて座れば瑞々しい草の匂いがする。
「しゃーない、付き合ってやる」
「恩に着る」
今はそれぞれ別の道を歩んでいるが、元は四百年近くともにあった仲だ。大抵の思い出は既に一度は聞いたことのあるものだった。一つの話芸のように口が慣れて饒舌に語れる話もあるくらいだ。それでも細かい点で記憶違いはあったし、印象も随分変わっていた。
「……川中島のこと覚えてる?」
姫鶴がぽつりと言った。
「いつのだ」
世に言う川中島の合戦は幾度かに渡って繰り広げられた。
「何度か引っ張り出されてたじゃん」
「彼が行ったのは一回きりではなかったか?」
あの表情を変えない姫鶴が、ぐっと目を見開いた。
「……あつき以外が行ったことがあったのは覚えてる」
「得意げに出ていった」
「それ、あんたと喧嘩してたから。結構いやそうだった」
「あいつ……」
山鳥毛の前ではご佩刀でございという態度だったくせに。どうにも山鳥毛には誇りを持って謙信公に付き従っていた印象が勝つ。
草露に濡れるほど語らううちにふつりと会話が途切れた。じっとりとした沈黙が落ちる。
「打ち上がったら、そいつのことどう呼ぶの?」
「……小豆長光と」
それ以外に何と呼ぶのだ。
いいのかと姫鶴は黙って山鳥毛の顔を覗き込んでいた。お前はそれで良いのか。そう呼ぶことを受け入れられるのか。
「おれたち、あいつのことずっとあつきって呼んでたじゃん。あんたは小豆だったけど」
「上手くやるさ」
笑ったら、ぱしりと頭をはたかれた。己のこういうところが姫鶴には我慢ならない。分かっていても直しようがない。
誰もいないのを良いことに、展示ケースを背もたれにしてあぐらをかいていた。目をつぶって神経を尖らせる。閉館間もない敷地内はまばらに人の気配がしている。夏の夜はまだほの明るいだろう。槌の打ちつけられる音ははっきりとした形となって広場まで漏れ響いている。
かん、きん、きん……かん、きん、きん……
鋼から不純物が取り除かれれば、いよいよ音は澄んだものになる。鈴のような音になる。
ふと山鳥毛は、今打たれている刀は千年の風雪を越えられるだろうかと思いを馳せた。己は残るということにかけては抜群に運があった。刀工は己に唯一無二の刃文を与えた。素晴らしく出来が良いものとしてこしらえた。そして持ち主たちは山鳥毛を戦に連れ出したこともあったが、ほとんどは錆びさせず朽ちさせず厳重に秘蔵した。価値を見出し、それに相応しい扱いをした。そんじょそこらの人間よりはよほど金と人命を使って大切にされている。翻って小豆にはその辺りの運はまるでなかった。彼は使われた。使われて、戦場に出て、そのままいなくなった。
刀匠は小豆長光の刃文を往時の長光を連想させるような、華やかな丁子乱れにするつもりだと漏らしていた。山鳥毛が覚えている限り、小豆は直刃調だった。彼に派手と言われて地味だと言い返してやったことがあるから間違いない。この先ひとは、小豆長光に長船派の豪華な刃文を連想するのだろう。存在しないということは、いま在るものに容易に駆逐されるということだ。
小豆に限らず、山鳥毛の記憶の中で息づく者たちは、大半が死者かとうの昔に失われていた。そもそも名前すら残らなかった者もいるが、謙信公のように亡くなってから逸話が一人歩きするものもいる。今さら感傷に浸るまでもなく、死という不在を生きる者が穴埋めしていくところを山鳥毛はずっと見つめてきたのだ。それに山鳥毛だって同じことをしてきた。
最後に小豆と言葉を交わしたときのことを何度か語ったことがある。みんなのことを頼むと彼は言った。いつもと同じだった。山鳥毛は当たり前だと笑い返した。節目がちに笑った小豆の面立ちは、今思えば何か予感を感じていたようだった。
その最後の一言を口にした瞬間、山鳥毛は慄然とした。あまりに座りの良い、美しい締めくくりは一体どこからやって来たのだろう。果たしてそれは本当に山鳥毛の記憶だろうか。
閉じた瞼の奥で火花が散った。閃光が閃いては虚空に消える。澄んだ金属音が夏の空気を叩いている。
きっと良い刀が出来あがる。それを山鳥毛は可愛がるだろう。小豆長光と呼んで、いつか精として形を取る日を待つだろう。崖が風化し崩れるように、川の流れが変わるように、思い出は変容を続けるだろう。山鳥毛がこの世にある限り、それは逃れ得ないことだ。失われるということは、他者の眼差しの中でしか生きられないということだ。
丹田に力を込めて立ち上がった。今に新しい刀が生まれる。それを山鳥毛は見届ける。そして小豆の不在を問い続けるのだ。この現在に不在の場所を空けておく。山鳥毛にできることはそれだけなのだ。
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