まだ溶けない
甘ったるい島だと思った。
「バレンタイン。友人や親しい人へ贈り物をする日らしいわ、起源は諸説あるけれど、一説ではかつて愛する人を故郷に残すと兵士達の士気が下がるからと、婚姻を禁止していた皇帝が居たの。でもその意に背いて司祭が内密で結婚式をしてあげてたらしいわ。ある時それが皇帝の耳に入って再三の注意をしたのだけど司祭は聞かなくて結局死刑にされてしまったのよ。でもそれは生贄という形にされたから祝日になって、司祭の名を付け、バレンタインという日ができたらしいわ。それが、今日」
パタリと古めかしい本を閉じてにこりと微笑むロビンにコックが体をグネングネンと軟体生物化させて褒め称える。
「転じて、愛する人へとチョコレートを贈るな人となったの」
「なんでチョコレートなんだ?」
「ここではカカオがよく育つからよ、チョッパー。カカオはチョコレートの原材料だから」
成程なぁ、と感嘆の声を上げるチョッパーは甘い匂いに釣られてはやく街へ行こうとそのロビンの手を引いている。仲間達の誰もがはやく街へ行ってその甘ったるい物を口にしたくて堪らないらしいのを後目におれは袖で鼻を覆った。
チョコレートは、おれが嫌いな食べ物だった。
何が愛する人へ、だ。甘ったるくて吐き気がする。
どいつもこいつも浮かれた顔をしてチョコレートだの花束などを手にして、これまた甘ったるい顔をして伴侶なり恋人なりと連れ立って歩く島の住民達はなんにも悪くは無いが、今日ばかりは睨みを効かせたくなってたまらなくなった。
なんせ甘い、何度も言うが甘い。食べてもいないのに口の中がチョコレートの味で充満し、鼻からは匂いが取れなくなりそうだ。兎にも角にも、甘ったるい。
はやく酒が飲みたい。辛口がいい。この甘い香りと味を忘れさせてくれる程に強い酒を浴びるほど飲んでしまいたい。そんな気持ちでチョコレートの香りに紛れて消えてしまいそうな酒場の匂いを頼りになんとか目的地へと辿り着く頃には酷く疲れてしまっていた。すれ違う人間皆、とにかくチョコレート塗れで鼻がひん曲がりそうな中歩いたからだ。
酒場の中に入れば漸くチョコレートの香りは薄れて、アルコールや油っぽい食べ物の匂いが鼻腔を擽り、此処こそがおれの居るべき場所だと安心感に包まれる。そうそう、これでいいんだよ、これで。
ホッと息をついて適当に空いている席はねぇかと視線を巡らせると、懐かしい後ろ姿がカウンターにあるのに気づいた。大太刀が立てかけてあるからだろう、恐れを成しているのか警戒しているのか誰もその空いている隣に座ろうとはしておらず、おれは嬉々としてその後ろ姿を見せる男の傍へと近寄った。
「トラ男、久しいな」
「入ってきた気配でまさかとは思ったが、まさかだった……」
カランッとグラスの中の氷を揺らして口にしていた男は、隣に座ったおれをちらりと見るなりウンザリした顔でぼやきやがる。舌打ちでもしそうな程に眉間に皺を寄せている癖して、座るなとは言わないから何食わぬ顔で居座ってやって、カウンターの向こうに居る店員にオススメを頼んだ。
「お前がここに居るっつー事はペンギン達もか、本当に久しぶりだ、アイツらにも会いてぇな」
「今は買い出しに行かせている。この島にはちょっと立寄っただけですぐに出ていくんだ、会う時間なんざねぇし、必要もねぇだろ」
「寂しい事言うじゃねぇか、同盟を組んだ仲だろ」
「そして今は敵同士だ。その辺は麦わら屋たちと違ってお前なら心得ていると思ったが、見込み違いか」
「そりゃお互い様だぜ?お前はおれに隣を許すべきじゃなかったな」
売り言葉はしっかり買ってしっかり受け止めてやる。自然と口角が上がって横目でトラ男を見てやれば、酒が不味いわけでもあるまいに随分と苦いものを噛んだかのような顔をして黙ってしまった。言い返され、ならばと、おれを他所へ行くように言ってしまえばいいものを、その言葉を吐きやしないのだからこの男は自覚していないのだ、自分もまた随分と甘いヤツだと言うことを。
甘い、という単語でまたチョコレートを思い出してしまった。ここは酒場、充満するのはアルコールと飯の匂い。だというのにやはり、鼻の中で匂いが残っているのかプンプンとした甘さが思い出される。粘り気のある、ずっと残ってしまう嫌な匂いだ。
「はぁ」
「……珍しく憂鬱そうだな」
「隈が取れねぇお医者様に言われたかねぇが、そうだな、憂鬱だ。テメェは気にならねぇのか、この島の匂い」
言われてすぐには気付かなかったらしいが、その後にああと頷いてまたグラスを揺らす。琥珀色の酒が中で踊ったのを見届けていると、頼んだ酒がやってきた。
「この島独特の文化らしいな、バレンタインだったか。そのお陰でここのカカオは近海の島でも流通しているらしいぞ、近年では近くの島でも同じイベントがされるようになったとか」
「うへぇ、早く出てぇ……」
「なんだ、チョコレートは苦手か」
「好んで食べようとは思わねぇ、そもそも甘いのは好きじゃねぇ」
お前らしいな、なんて一言はコロンと転がる様に呟かれ、ついでに軽い笑い声も聞こえてきた。
「その面で甘いもの大好き、てのもギャップがあって面白かったのに」
「人で面白さを取ろうとするんじゃねぇよ」
クツクツと笑う男は、おれが来るまでにすでに幾らかの酒を飲んでいたのかもしれない。何時になく、と言うほど長い時間を共に過ごしたわけでもないが、それでも平素の姿よりはよく笑っているなと思う。こちらに顔を向けることなくグラスばかりを見つめるその横顔はご機嫌宜しく、もしかしたらこの男の方こそチョコレートが好きなのではと思ってしまった。大好きな匂いに囲まれてさぞや楽しいだろうよという嫌味を呟きかけたが、来た酒に未だに手を付けなてなかったことを思い出してグラスに手を伸ばす。茶色の酒は珍しい色で、なんだろうかと口に近づけたところで鼻を掠めたその匂いに口をつける前にピタリと、手が止まった。
「ゾロ屋?」
酒は好きだ。その事はポーラータング号に乗っている時にも何度も酒を飲んでいたからトラ男も知っているし、なんなら小言を言われてしまうほどであったから、おれが酒を飲まずにグラスをカウンターへと逆戻りさせたことに違和感を覚えたらしい。横顔ばかりだった男がおれへと顔を向けたが、おれはそれどころではなかった。
みしりと、グラスが悲鳴を上げるほどに握りこんでカウンターの向こう側にいる店員へと声を荒らげるように呼びかける。
「おいっ!何だこの飲みもん!」
「はい?なにって、酒っすよ。オススメの」
「酒ェ?!この匂い、チョコレートじゃねぇか!」
「そりゃ、チョコレートリキュールのお酒ですもん。アンタ何言ってんすか、今日はバレンタイン!オススメの酒とくりゃそれっすよ!良いカカオ使ったやつでねぇ……」
「チョッ……リキュー……?!マジか…!」
まじまじと酒を、いやもうチョコレートだ。溶けたチョコレートにも等しいグラスの中を睨んでしまう。こんな所にまでお前は現れるのかと仇でも睨んでしまうような気持ちだった。というかもうコイツは仇だ。敵だ。おれの胃袋への侵入なんざ許してなるものか。
「替えろ」
「えぇぇ……いや出したもんは飲んでくださいよ、ま、辛口の酒も出してやりますけど。勿体ないんで、飲んで。つか飲め」
「このっ……!」
まだ、若いらしい店員は怖いもの知らずか世間知らずか、おれが海賊だとわからないのか、商魂逞しいだけなのか。素知らぬ顔で新しい酒を継ぎながら飄々と言うものだから文句を口にする暇もなかった。なんだあの態度。たたっ斬ってやろうかと憤りすら湧いてしまう。そんなおれの隣では、おれが酒に口を付けなかった理由を理解したトラ男が、ケタケタと笑っていた。やはり、おれが来るまでに随分と飲んでいたらしい。じゃなければこの男がこんなにも笑うなんてありえない。馬鹿みたいに口を開けて笑っているわけじゃないがそれでも、笑顔なんてのとは無縁な程におれが見てきた顔と言えば、仏頂面の無愛想な顔ばかりだったはずだからだ。
笑う男は存外、幼い顔をしていた。
「ははっ!ちゃんと注文しない方が悪い」
「こんなん出てきたこと一度もねぇんだよ、クソッ……どうすっかな」
横暴な店員の言葉なんて無視してやってもいいのだが、生憎と、おれは腹が立つ事に忌々しいコックのせいで食い物やら飲み物やらを残す事を許されないようにされてしまっていた。残せばうるさいのだ、あの男は。
仇のような酒の隣に、新しい酒が置かれて、透明なそれはおれが好む米の酒だとは分かっていながらもつい警戒しながら鼻を近づけてしまう。いつも通りの酒の香りで、ようやく一口飲むことが出来たが、目の前には変わらず茶色い飲み物が鎮座していた。甘い甘い匂いをさせて。
「はぁ、本気ではやく出て行きてぇ……」
「そんなに嫌いかよ、しょうがねぇな……飲んでやろうか」
「あ?」
それは渡りに船だった。トラ男を見れば頬杖をついてニヤニヤとした顔をしていて、あまりいい顔とは言えない。それでも言った言葉は冗談ではなく本気らしく、取り消すような気配もなかった。
「おれは特別嫌いという訳でもないからな、安心しろ、その酒の代金くらいはおれが持ってやる」
「ハッ!そりゃありがてぇ、じゃ、頼……」
おれは飲むつもりがねぇ、しかし残すのも具合が悪い。
だからトラ男の言葉は有難い以外のなにものでもなく、グラスをカウンターに滑らせるようにトラ男へと押しやった時に、なぜだがロビンの言葉を思い出した。
愛する人へ、チョコレートを。
「……」
いや、いや、いや。別に。
このチョコレートリキュールの酒はたまたまおれが頼んじまって手元にやってきただけだ。偶然、たまたま、なんの意図もない。当然だろう。そもそも、ただただこの島の古い言い伝えみたいなもので、チョコレートを愛する人へだとかなんだというのも、結局は言い伝えを使った商戦に他ならない。実際のところはなんの意味もない行為だ。
それでも、チラッと頭をよぎってしまった。愛を伝える手段だとかいう、馬鹿みたいな話を。
「ゾロ屋、手、離せ」
「……」
押しやっただけのつもりだったグラスを、おれはどうやら握りしめるようにして持っていたらしい。そのグラスをトラ男もまた縁を掴み引き寄せようとしていたが、おれは手が離せなかった。
「ゾロ屋」
「あー、いやぁ……やっぱり、いい」
「へぇ?お前、飲むのか……いいぜ?苦しそうにして一気に飲む姿は肴として楽しめそうだ」
「性格悪ィ奴……!飲むかよっ!」
「なら寄越せ」
グッと引っ張られたグラスを、おれもまたグッと引き寄せてしまう。ぴくりとトラ男の眉が跳ねて、ニタリと笑いながらも額に青筋が浮かんだのを見た。
「なんだ、実はチョコレート好きだったか?ギャップというやつだな、面白い」
グッとまた、グラスが引かれてしまう。
「いや嫌いだ。大嫌いだ。だからと言って嫌いなもんを人様にやるのはどうかと思ってな」
そしておれはまた、グラスを引き戻す。ミシッと嫌な音がした。その音を無視するようにまたトラ男はグラスを引き寄せようとするから、おれも力が入ってしまった。
「そんな殊勝な野郎じゃねぇだろテメェは」
「実は根はいい奴なんだよ、おれ」
「根がいい奴は自分でそうは言わねぇよ。寄越せ」
「すげぇ甘い匂いするぞ、これは最早酒じゃねぇ。チョコレート溶かしたなにかだ、やめておけ」
「チョコレートリキュールの、酒だろ。寄越せ」
「胃もたれするぜ、歳を考えろよ」
「五歳しか違わねぇだろ、つか、まだ二十代だ馬鹿にすんな、寄越せ」
「じいちゃん。同じ言葉ばかり繰り返してるぜ」
「餓鬼が減らず口を叩くなよ、寄越せ」
「そんなに飲みてぇか?!」
「お前から貰えるチョコレートなら貰う」
はっ、と一瞬息の仕方を忘れた。
押し問答をしている間にグラスはミシミシと悲鳴を上げていて、このまま不注意で割れて飲めませんでした、とはならないものかと姑息な事を考えていた中で入ってきた言葉に、息を飲んでしまった。
「おれから、なんだって?」
「貰えるなら貰う」
「肝心な部分が抜けてる気がする」
「あ?はっきり言って欲しかったか」
はっきりとはなんの事だ。いや、おれも何を言ったのかと自分の発言を思い出す。肝心な部分だと、肝心な部分とは、なんだ。
「ゾロ屋もこの島が今日バレンタインだとかいう祭りに浮かれている事を知っているんだったな。昔は花束なんぞだったが今ではチョコレートを贈るのが恒例である事も。それで、一瞬でも馬鹿な考えが浮かんだか?」
「馬鹿な考えだと?」
「ほう?馬鹿な考えでは無いのなら、真面目な考えか」
愛する人へ、なんて事を馬鹿な考えとしてなのか、それとも真面目な事として考えたのか。ただ浮かんだだけの考えなだけであるはずなのにそのどちらかを考えあぐねてしまう。
額に浮かべた青筋を引っ込めて、ニタニタした顔だけを残してトラ男は更に自分へとグラスを引き寄せる。おれとトラ男の間で波打つ茶色の液体は、零れそうで零れない。
「意外だな、ゾロ屋。へぇ?おれを?本気で?」
「んなわけあるか!気色の悪い!」
「……なら、いいだろ。ただの酒だ。チョコレートリキュールのな」
どちらともつかないまま、ただの酒である事を言いつつ、やたらチョコレートを強調していうトラ男は不意に力を抜いた。反動で勢いが着いて手元に戻った酒は少し零れてしまい、あ、と思った時にはグラスは奪われてしまった。
「あ、くそっ」
手にベッタリと、甘い匂い。少量とはいえど舐めとるわけがなく、店員に声をかけてタオルを借りた。その間にも手元へとグラスを引き寄せる事に成功したトラ男と言えばカウンター拭いておけなんて不遜な態度で言いやがる始末だ。素知らぬ顔で琥珀色のグラスを脇において、茶色ばかりのグラスを片手にユラユラとさせている。
「チッ、飲むならさっさと飲んじまえ。甘ったるい匂いがする」
「わかってねぇなぁゾロ屋。こういう酒は味わって飲むものだ」
ユラユラと縁を持ってグラスを揺らし、そして漸く口をつけた。ひと口、唇を湿らせる程度で、おれならばそれすらも厭うだろうけれど、トラ男は表情を苦痛に歪めたりはしない。甘ったるい酒に合わせるよう、ただ甘ったるく口元を歪ませた。
「少しづつ飲むもんなんだよ、これは。口の中で味わって、アルコールとチョコレートの甘さを感じて」
そしてまたひと口。今度は少し多めに。
口に含ませて、舌で絡めているのか。言葉通りに味わっているらしい姿は酒を飲んでいるだけでしかないのに、どうにも居心地が悪い気分にさせられた。腰とか首の裏がむず痒くなるような感覚だ。見てはいけないものを見ているような感じだった。
トラ男が酒を飲む姿なんてのは、それこそトラ男の船に居る時に何度も見た。トラ男の部屋で二人で酒を飲んだ事だってあるが、その時は体がむず痒くなるような気持ちになった事なんて一度もないのに、今は全身が痺れるような感覚を覚える。
ゴクリ、とトラ男が酒を飲み下し、そして舌が唇を舐める。薄い唇が満足そうに微笑んで、するりと細く開いた眼差しが向けられるととうとう我慢できないほどにざわめきが大きくなって、思わず首裏に手を伸ばして撫でて、そっぽを向いてしまった。
「こうして、口の中で溶かすんだよ……ドロドロにな」
「っ、いやらしい……!」
「ははっ!純粋だなァ、よくもまぁ海賊なんてやってこれたもんだ」
蠱惑的な微笑みは一転して、ケタケタとした笑いへと変わる。
コクリコクリとチョコレートリキュールの酒を飲む姿は今まで通りのもので、からかわれたのだと気付いて不愉快に舌打ちをした。こんな島に立ち寄るんじゃなかったと、決定権は自分には無いのにそんな気持ちにさせられる。こんなイベントがあるなら来なかった。こんなチョコレート塗れだと知っていたら来なかった。ここにコイツが居ると知っていたら、来なかった。
「性格悪ィ……遊びやかって」
「初心な反応を有難うよ。お陰で暫くは思い出すだけで酒の肴になる」
「うっぜぇ……チッ、お前なァ、おれはたまたまそれが手元に来ただけなんだぞ。おれがそういう意図をもってテメェに酒渡してたらどうすんだよ。からかうどころの話じゃなくなってたぜ」
「んなもん、文字通りくだらねぇ問答なんかせずに奪ってさっさと飲み干すに決まってんだろ」
「………へ?!?!」
そりゃどういう意味だ。聞くには男の顔は悪党じみすぎて、おれは結局なにも聞けずに、まだまだ残っているチョコレートのグラスへと視線を落とすしか無い。
──お前から貰えるチョコレートなら貰う
その言葉の意味を理解するには、まだおれの中では何も考えられなかった。
powered by 小説執筆ツール「arei」