街灯
走る。くたびれたランニングシューズが、夜道を駆ける。一定の心拍数を保って。時折、小石を蹴りあげながら。電線がジー、と唸り、近くの川がとろとろ流れていく。走る。深い夜だが、暗闇ではない。街灯がひそやかに、けれどあたたかく、道の先を照らしている。ドンシクは、点々と続く灯りをひとつひとつ目で追い、途絶えていないことを確認した。
夜半過ぎ。眠れない日に、ドンシクは決まってランニングへ出かけた。寝静まったマニャンの町に、規則正しい足音が響く。家を出て、長い坂道を下る。町役場を抜けて山の麓へ。派出所前を通り、商店街を一周して、また家まで戻る。決まって通る場所の他に、かつて自分が警官だった頃にパトロールしたルートを回ることもあった。
あの忌まわしい事件から三年。川沿いを侵食していた葦の群生は、すっかり刈り込まれ、対岸の景色が良く見えるようになった。街灯の数が増え、町中にいくつか、正しく機能する防犯カメラが設置された。失踪者の呼びかけ、再開発反対の訴え、それらを色褪せるまで伝え続けた横断幕は、今はもうどこにもない。
二十年の時を経て、この町が、ここで暮らす人々が、ようやく取り戻した平穏とも呼べる日常を、ドンシクはもう誰にも損わせたくなかった。だからドンシクは走った。夜の町を駆け抜け、朝日が昇るまで。日の出とともにゴミ出しへ向かう、徹夜明けの学生に挨拶をして。公園でゆったりと太極拳をする早起きの高齢者に、体の調子を伺って。元気いっぱいに学校へ向かう子どもたちを笑顔で見送り、下を向いて歩く初等学校の女の子を、我が子のように心配し、励ました。
そう遠くないその昔、パートナーだったあの男へ、ドンシクが課した約束のように。自身もまた、この町を守り、ここで生きることこそが、理由であり、贖罪であり、この先続く長い余生の目的だった。今までも、ずっとそうしてきた。これからもそうするだけだ。誰かのために、走って、走って、走り続けた先に、何かがあるわけではない。それでも、自身が走り続けることで、また、その姿をこの町で暮らす人々へ見せることで、誰もが安心し、穏やかな日々を送れるのなら。ドンシクにとって、それは何にも変え難い、確かな喜びだった。
そんな暮らしを続けている間、母はあっけなく逝ってしまった。苦しまずに逝けたことが何よりの救いだった。だがこの町に、世界のどこにも、血のつながりがあるドンシクの家族はもういない。家族のように親交を持った友人はいたが、新たな喪失は、さらにドンシクを意固地にさせた。
三年続けたら十年。十年続けたら二十年。走るのは無理でも、せめて歩けなくなる前までは。初等学校へ通っていた子どもたちが、大人になり、それぞれの生き方を選択するまでは。親愛なる友人たちと一緒に老いて、誰かを見送るその時までは。だから自分は、死ぬまでこの町で生きるのだと。そう信じて疑わなかった。
ある夏の日、彼女がそう言うまで。
───ソウルに部屋を借りたの。仕事が決まったのよ。
人で賑わうソウルのコーヒーショップで、彼女がドンシクに言った。素直に「おめでとう」とドンシクが返せば、彼女はアイスアメリカーノを啜りながら「ありがとう」と微笑んだ。
事件が解決したあと、彼女───パン・ジュソンの姉とドンシクは、時々顔を合わせるようになった。己の犯した罪の罰を受け、執行猶予期間を終えたあと。ドンシクは、自警団じみたパトロールと併せて、犯罪被害者、遺族のための被害者支援センターのボランティアをはじめた。彼女とは、センター主催の自助グループの集いで出会った。ドンシクが名刺がわりに渡した小さなカードを見て、行く気になったのだという。
彼女のことは時々、マニャンの町で見かけてはいた。認知症の父親と一緒にいる時以外、彼女はいつもひとりだった。スーパーで会っても、お互い知らぬふりをした。おそらく、ドンシクに対して罪悪感があったのだろう。気まずそうに逸らした視線から、それがありありと伝わってきたので、ドンシクも彼女に関わらないようにした。けれど、父親を亡くしてからの彼女の、魂の居どころを失ったような顔を見て、ドンシクから声をかけた。ドンシクには友人がいたけれど、彼女にはいなかった。それが理由だった。
彼女とは、月に一回、ソウルで開催される会の終わりに、一緒にコーヒーを飲んだ。歳も近いし、共通点もある。長年の積もりに積もった疑惑さえ払拭されてしまえば、茶飲み仲間になるのは、案外拍子抜けするぐらい簡単だった。
ソウルで新しい生活をはじめると話す彼女は、まるで初めて恋をした少女のようだった。いや、きっと恋なのだろう。いくつになっても、誰もがなにかに恋する権利がある。ドンシクが「青春だね」と言うと、彼女は「あなたはどうなの」とでも言いたそうに、前のめりにテーブルに肘をついた。
───町中の人が、あなたの噂してる。
ドンシクは、コーヒーのグラスをストローでかき混ぜながら「うわさ」と小さく繰り返した。「さて、熱愛報道でも出たかな」と、とぼけてみせれば、彼女は「いい噂よ」と言った。
───いい噂って? もうあの町での噂は聞き飽きたから、とびきり楽しいやつじゃないと。
ドンシクが口を尖らせて言う。彼女はあきれたように肩をすくめ、ふ、と笑った。
───マニャンにもスーパーヒーローがいるって。
───ヒーロー? ははっ。まさか。
───夜な夜なパトロールしてるみたい。
───あんな田舎にバットマンはいないよ。
───ふふっ。知ってるくせに。
昨今のSNSほどではないが、田舎の情報網はそれなりに早い。それだけ地域のコミュニティが確立されているということでもある。ふと「薬屋のばあさん、この前会った時、背中が痛いって言ってたっけ」と考えた。
───ねぇ、ドンシク。ヒーローはひとりじゃないのよ。
ドンシクはぱちぱちと瞬きをした。バレている。それに。
───と、言うと?
───街灯をチェックしてるのはあなただけじゃない。あの町で暮らす人はみんな、あそこで起きたことを忘れないし、あなたの背中をずっと見てるのよ。嫌よね。誰かがどこかで必ず見てるんですもの。うっとおしくてしょうがないわ。でも本当に感謝してる。あなたが掘り起こして、世間に知らしめてくれたから。わたしたちも、わたしたちの家族も、ミンジョンも、ジェイだって。みんな。みんな、誰も悪くないって。
そうだ。誰も悪くないのだ。だからこそドンシクは、走って、走って、走り続けた。ちゃんと伝わっていた。安堵とともに、勝手に目に水分が溜まってくる。二十年以上も我慢し続けたから、涙腺が馬鹿になっている。上を向いてやり過ごそうとしたら、彼女の両手がドンシクの手の上に重なった。
───ドンシク。もう幸せになっていいのよ、わたしたち。
*
汗だくで、ソウルの町中を走る。新品の革靴はまだ足に馴染まない。跳ねるたびにネクタイが襟元に食い込む。なぜ人類はネクタイなんてものを作ったんだと呪詛を吐いているうちに、目的地へ行くバスが発車しようとしていた。
ギリギリで飛び乗った満員バスに揺られながら、ドンシクはスマートフォンを開いた。最近、ソウルに戻ってきた若者からチャットが届いていた。
『今晩は一緒に食事を。初出勤がんばってくださいね』
車で送る、との彼からの提案を聞いておくんだった。引かない汗をハンカチで拭いながら、チャット画面でテキストを打った。
支援センターでの仕事ぶりが評価され、正式に働くことになった。初日だからとスーツを着てみたものの、やっぱり今ひとつ体に合わない感じがする。ネクタイを緩め、窓の外を見る。大勢の仕事へ向かう大人や学生が行き交い、車同士がスレスレの車間距離でクラクションを鳴らしあっている。鍾路タワーの前では、これからデモをするのであろう人たちが集まっていて、警察官が数名、彼らと話しているのが見えた。この町はいつだって騒がしい。それでこそソウルだ。
またここで、新しい生活が始まる。
ドンシクを乗せたバスが、のろのろと目的地へ向かう。走って、止まって、人が歩くスピードよりゆっくりと。それでも動いている。だから、動いているうちは。
「幸せになろう」
誰にも聞こえないほど微かな声で、ドンシクはそう呟いた。
powered by 小説執筆ツール「arei」
171 回読まれています