薄曇

 ここは月のない深夜でもうっすらと明るい。明るいと言っても、道の先を照らすそれではなく、そこここで留まっている魂がぼんやり光っているのだ。
 オシカ・ナタ。アビスとの戦火を越えてしばし経ち、この地の魂も少し穏やかさを帯びた気がする。君の魂も同じだろうかと、オロルンは手持ちランプを掲げて微笑んだ。
「こんばんは、隊長。日が空いてしまってすまない」
 オロルンの長い旅路の終着点。それがここで、彼だった。今や遠く感じる、彼と行動を共にしたあの日々を、しかしオロルンはずっと忘れられないでいる。時たまオシカ・ナタに赴いては、彫像のように座す彼の足元でたわいない世間話を聞かせるのが習慣になっていた。
 戦争のなくなったナタは今、外界との繋がりを取り戻して毎日がお祭り騒ぎだ。話したいことは尽きない。けれど今日は、今日だけは、オロルンの特別な日のことを話したかった。
 玉座のような椅子を背もたれにして座り込み、鞄の中から小ぶりの瓶とグラスを取り出す。しっかりと包んでいたおかげで割れも欠けもないようだ。ふたりぶんのグラスのひとつを地面に置き、両方に瓶の中身を注いだ。
 グラスを掲げて空に透かしてみる。雲が多く明かりらしい明かりは見えないが、周囲の薄白い光とランプがあれば充分だった。液体は限りなく透明に近い。でもまだ、ほんの少し濁りがある。
「できれば今日までに完成させたかったんだ。でもしょうがない、我慢しよう」
 今日は僕の誕生日なんだ、と言いながら、地面に置いたグラスに自分のグラスを軽くぶつける。ひとくち含んで味わい、こくりと飲み下した。
「やっぱりぜんぜん違う。『星霧』と名付けられるのはまだまだ先みたいだ」
 顔の横にある彼の足に少し体重を預け、目を閉じて、耳をそばだてる。オシカ・ナタで聴こえる音は普段の夜闇の静寂とは少し違う。あらゆるものがしんと溶け入って、すぐそこで、遠いどこかで、ずっと囁きかけてくるような音だ。ナタのどこよりも静かなのに、どこよりもうるさい。
 そしてその音は、耳を傾けている者すら溶かしていく。この場所で隊長に語りかけながら、ふと黙り込んだとき身体を包むこの静寂が、オロルンは嫌いではなかった。
 何よりそこには、君がいる。澄んだ空気を吸い込んでから目を開けると、月を隠していた雲がほんのり薄くなっていた。それはさながら、グラスの中の少し濁ったこの酒のように。
「ふふ。ならこれは『薄曇』と名付けようか。どう思う、隊長?」
 陽気に肩を揺らして笑う自分がおかしくてまた笑う。まだほんの数口しか飲んでいないのに、酔いが回っているのだろうか。イファに見つかったら怒られるなと他人事のように考えてから、そうだ、と弾んだ声を上げた。
「今日は僕の誕生日会をするんだ。これから帰って寝て、僕が起きたらだけど。まあ、ばあちゃんも日が暮れてからのほうが目が覚めてるだろうし」
 ナタ人は生誕の祝いを欠かさない。毎年、誰の誕生日でも飲めや歌えやの大騒ぎだ。君も祝いの席は嫌いではなさそうだったから、きっと楽しんでくれるかな。
 上機嫌でグラスを傾けながら毎年の恒例行事のエピソードをひとつひとつ話していると、ついに中身が底をついた。行儀悪く口を開けて上向いて、グラスを逆さにしても雫一滴落ちてこない。
「……時間みたいだ。また君と飲めて嬉しかったよ。『薄曇』はとっておくから、『星霧』と一緒にいつか飲んでほしい」
 地面に置いたグラスを拾い上げる。あの日止められた二杯目を一息に飲み干して、ぺろりと唇を舐めた。理想とは違う味だけれど、決して悪くはない。
「おやすみ、隊長。また来るよ」
 グラスを拭い、『薄曇』の瓶も鞄にしまって。ランプで照らしてしっかりと隊長の姿を見る。今ここに自分がいるのは彼がいるから――彼は終わりで、同時にオロルンの始まりだった。
 君から始まった道は、まだ続いている。続けていくかぎり、君と交わる日も来るはずだ。そのときは必ず、僕と一緒に乾杯して。
 またね、と微笑みを残し、オロルンはオシカ・ナタの夜空に飛び立った。宵色の後ろ姿が薄曇りの中に溶け入って、見えなくなって――風が吹く。
 氷の触れ合うキンと高い音が一条響き、柔らかな月明かりが玉座を照らした。



powered by 小説執筆ツール「arei」

8 回読まれています