孤独な女神
どうあっても「幸福な夢だった」とは言えないものから、ようやく解放されたフリーナは、寝惚け眼を擦りつつ、身体を起こした。自分の体温によって適度に温まったベッドから、するりと抜け出てから開けた、厚手のカーテン。窓硝子の向こう側に広がるフォンテーヌの街は、未だ闇の支配下にあった。どうやら、夜明けはかなり先であるらしい。
「……」
草木すらも眠る深夜なのだから、自分も、もう一度、眠るべきだろう。壁に掛けられた時計を確認するまでもない。フリーナは息を吐く。それは、気が滅入ってくるほどには重苦しい。そんな考えとは裏腹に、目は段々と冴えていく。
夜が明けて、世界が新たな一日の始まりを告げたあとのフリーナには、やることが山積みだ。自分は、このフォンテーヌという大国で、非常に重要な立場にあり続けているのだから。
改めて、外を眺めた。黒だけで塗り潰された空。屋内からでは、闇へと寄り添う星の瞬きを捉えることは難しい。しかし、彼らはきっと、控えめな光を放ちながら、元素力に満ち溢れたテイワットという世界を、穏やかな目で見下ろしていることだろう。
この世界は美しい。環境にもよるが、大地の大部分は生命力に溢れた緑で覆われているし、青く果てしない大海もまた、悠久とも言える時の中で、数多の命を育んできた。
フリーナは、そんなテイワット大陸を支える「七神」の一柱――魔神「フォカロルス」を演じ続ける役目を担っている。
それは、彼女自身が渇望して掴み取った立場ではない。寧ろ、逆と言える。ひとりで背負うには、あまりにも重すぎるものがずっと、フリーナの華奢な体に、伸し掛かっているのだから。そして、その事実は、この世の誰に対しても、打ち明けることが許されていない。
そう、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌという少女は、これ以上ないほどの眩い光を浴び続けながら、この国で最も孤独な心を抱え込んでいる。フォンテーヌという国が、真の意味での「救い」を得られるその日まで、秘密を貫き通さねば、これまでのすべてが水の泡になってしまうから。
「はあ……」
彼女は自分が背負う運命に、嘆きのみで染まった溜め息をついた。一体、いつ終わるのだろう、この、独りぼっちの物語は。
気付かぬうちに、銀髪の少女の頬には、一筋の生ぬるい涙が伝っていた。
「う、うぅ……、あ……」
嗚咽が他所の誰かに聞こえてしまわないように、フリーナは必死になって、それを押し殺す。加えて、この涙を拭えるのは、自分だけだ。
幾ら、心が悲痛な声をあげていても、それが傷だらけで、ぼろぼろに朽ちる寸前でも、フリーナは自分以外を頼れない。出口の見つからない、複雑で残酷な迷路の中を、彼女は彷徨い続けるしかない。舞台の灯りが落とされる、その日を迎えるまで。
結局、その後は、ほとんど眠れなかった。無情にも昇った太陽が、正義と水の国を見下ろす。肉体的な疲労も、精神的な疲労の方も、全くと言っていいほど抜けていなかった。
溜め息と一緒にベッドから離れると、数時間前の自分がしていたように、フリーナは窓の向こうへと目線を投げる。
「――」
今日も自分には、やるべきことが山積みだ。草臥れた体に鞭を打って、フリーナは身支度を整える。
それから、パレ・メルモニアの上層階にある、この部屋から出ると、積み上げられた階段を一段一段、確かめるように下っていった。
下層に着くと、埃ひとつ落ちていない、掃除の行き届いた廊下をしばらく進んでいく。その先に、「彼」がいる部屋は存在する。ふう、と一度だけ息を吐いて、フリーナはいつものように、大きな扉を三回程度ノックした。どうぞ、と然程の間を置かずに返ってくる声を両耳で聞き取ってから、少女は小さな手でその扉を開けた。
「やあ、ヌヴィレット!」
今朝も良い天気だね。フリーナは普段と同様に、すらすらと台詞を読み上げた。
ここが、フォンテーヌの最高審判官である、ヌヴィレットの執務室になる。彼は、自分の為に用意された、大きな椅子に腰を下ろして、既に机仕事を開始しているようだった。
「ごきげんよう、フリーナ殿」
ヌヴィレットの方も、いつもとなにも変わらない声と眼差しを返してくる。当然のことだが、彼も、水神を演じ続けている、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌに欺かれる側だ。
「早速で悪いのだが、君にも、早急に目を通して欲しい書類が複数ある」
「ふうん、分かったよ。……で、どれだい?」
「これだ。……それから、これは一応の確認なのだが――明日、午前九時前には、エピクレシス歌劇場に到着しているように」
「ああ、それは大丈夫さ。何の心配も要らないよ、ヌヴィレット。自分のスケジュールは、僕だってちゃんと覚えているからね」
事務的なやり取りを何度か。それは、水神と水龍という、特異な立場に立たされるふたりにとって、これまで、何度交わしてきたか分からないものだ。こういったものは、決して、面白いものではないけれど、与えられた役割なのだから、文句など言わずに、こなさなければならない。
「……それで、フリーナ殿。私には少々前から、ひとつ、気になっていることがある」
ヌヴィレットが、じっと少女のことを見つめつつ、その口を開く。
「――近頃の君は、満足に眠れていないのではないか?」
彼の発言は、予想外のものだった。フリーナは思わず「えっ」と小さな声を漏らしてしまう。これでは、全部、肯定しているようなものではないか。ヌヴィレットは、薄紫色の瞳を用いて、フリーナのことを射抜いている。そんな彼に、なんと返せばいいのか。フリーナは心臓の鼓動が速まっていくのを認めながら、ちょうどいい言葉を必死に探した。
「えっ、えーっと……うん、実を言うと僕、最近、読書にハマっていてね……」
「読書?」
「ああ! ちなみに、いま読んでいるのは、モンド生まれの作家が書いた小説さ! どうやら、各国で流行っているみたいでね……。なんとなく読み始めたら、それが面白くて面白くて……つい、遅い時間まで読み耽ってしまったんだ。昨晩もね」
モンド。それは、ここからそれなりの距離を置いた、風神バルバトスの領域。清々しい風と共に、蒲公英などの可憐な花々が無邪気に踊り、集った吟遊詩人たちが思い思いの詩を紡ぐ、自由の国だ。フォンテーヌに留まり続けているフリーナは、それほどモンドという国について、明るいというわけではない。だが、きっと、色鮮やかで美しい国なのだろうな、とは思っている。いつか、行ってみたい。この目で直接、その景色を見てみたい。そんな、易々とは叶わないであろう願望が、水神フリーナの胸の奥にはあった。
「……そうか」
自分が、モンド人作家によって書かれた、小説を読んでいること自体は事実だった。しかし、昨日の夜の大半を、それに費やした、という発言は真っ赤な嘘である。眠れない夜を幾つも重ねてしまう本当の理由を、彼に明かすわけにはいかなかった。どうしても。
「読書を楽しむのは結構なことだが……夜更かしは、ほどほどにするように」
ヌヴィレットは、それ以上、問い質してこなかった。これに「ああ、分かったよ」と答えながら、フリーナは密かに安堵していた。しかし、同時に、このようにも思ってしまう――僕は、これ以上、偽りを幾重にも積み重ねて、ヌヴィレットのことを騙したくなんかないのに、と。
しばらくの間は、これといった会話も、若干の歪みも存在しない、静かな時間が流れていった。それを破ったのは、コンコンという、乾いた何回かのノック音。これに、ヌヴィレットが素早く応じると、メリュジーヌがひとり、ひょっこりと彼らの前に姿を見せた。
彼女は言う――おふたりとも、そろそろ休憩をとられては如何でしょうか、と。ヌヴィレットとフリーナは、ここで気付く。自分たちが、思っていた以上に長時間、書類の山を崩す作業に、没頭していたということに。その甲斐あって、積まれていたそれは、随分と標高を下げている。このまま順調に進めていけば、何の問題もなく、今日のうちに処理は完了することだろう。
「フリーナ殿」
「うん?」
「私は少し、外の空気を吸いに行こうと思うのだが、君はどうする?」
「……じゃあ、僕も、キミと一緒に行かせてもらおうかな。それでも、いいかい?」
彼女からの返事に、ヌヴィレットは「無論だ」と頷いて、すっと立ち上がる。フリーナもまた、これに続いた。
ふたり揃って、長く籠った執務室から退室し、フォンテーヌの心臓部とも言える、パレ・メルモニアから出たタイミングで、一陣の風が吹き付けてきて、彼らの豊かな髪を弄んだ。これは、ただの偶然でしかないけれど、ヌヴィレットの髪と、フリーナのそれは、ほとんど同じような色をしている。なんだかお揃いみたいだな、と改めて思えば、名前の見つからない感情が、少女の胸の奥深いところを、音も立てずに満たしていった。
「ねえ、ヌヴィレット。キミにはどこか、行く宛はあるのかい?」
「いや、特にない。私は少々、外に出たいと思っただけだからな……」
彼から返ってきた台詞。その全部が想像通りのものだったので、フリーナはくすくすと笑った。なら、ゆっくりとお散歩でもすればいいかな、と続ける彼女に、ヌヴィレットの方も、そっと目を細めつつ頷いた。
ふたりが歩む、フォンテーヌ廷の大通り。そこは、多くの人で賑わっている。フォンテーヌを祖国とする者ばかりではなく、璃月やナタなどといった、外国からの旅行者なども少なくない。あとは、最近になって、稲妻からの客人も増えたように思う。
そして、最高審判官のヌヴィレットと、水神であるフリーナの登場に、人々が気付いて、どよめきだす。思わず声を上げる者、ふたつの目をきらきらと輝かせる者、急いで道をあける者など、その反応はまちまちだが。
「ああ、フリーナ様! あなたは、フリーナ様ですよね!」
その中で、一際大きな声を発したのは、フリーナたちからすれば、顔も名前も知らない、金髪の青年だった。彼は、周囲の者たちを押し退けるようにして、やや強引にフリーナの方へと近付いてくる。ヌヴィレットは、これに警戒した。この見知らぬ青年から、悪意やそれに近いものは、特に感じられない。しかし、万が一、ということはある。何かがあってからでは遅いのだ。
「僕は、フリーナ様の大ファンなんです! ああっ、こうしてあなたにお会いできて……感無量です!」
彼は、より声を張り上げる。だが、こういうのはよくあることではあった。フォンテーヌに於いて、フリーナは誰よりも強く輝く一等星――大スターなのだから。眩しいくらいのスポットライトを浴びながら、数多くの者たちを魅了してきたのだ。彼女は笑顔を作ると、慣れた様子で「ありがとう」と返す。大抵の場合は、これで終わりとなる。
しかし、今回は、そうならなかった。厄介かつ、図々しくも、彼はフリーナに、握手を要求してきたのだ。これには彼女も困惑してしまい、隣のヌヴィレットが意味有りげに咳払いをする。
「ごめん。申し訳ないとは思うけれど、キミだけを特別扱いするわけには――」
「ええっ、そこをなんとか! お願いします、フリーナ様!」
彼は引き下がらない。面倒なことになったな、とヌヴィレットは黙したまま、眉を顰めた。
「僕は、フリーナ様に一目会いたくて……遠路遥々、スメールから来たんですよ!」
彼の言うスメールは、テイワット大陸に七つ存在する国のひとつで、知恵の国として広く知られている。若き草神ブエルの庇護下にあり、鬱蒼とした雨林に、荒涼たる砂漠。大きく異なったふたつの顔を持つ、非常に大きな国だ。
「本当は、何日か前に歌劇場で開かれた、あなたの舞台を見に行きたかったんです。でも、どうしても、その日のチケットが取れなくて……。僕はもう、明日には、スメールシティまで帰らなきゃいけない……。それに、次はいつ、フォンテーヌへ来られるかどうか分かりません。そんな僕がいま、この場所で、あなたに巡り会えた! これって、運命的なものだと思うんです! ね、フリーナ様、あなたもそう思いませんか?」
捲し立てるように言った青年は、ここで一旦、言葉を切った。
「だから……どうかお願いします、フリーナ様! 僕の一生のお願いを叶えてくれませんか」
「いや、そう言われてもね……」
フリーナは、困り顔でヌヴィレットの方を見た。彼女の大きな青い瞳に映り込んだ彼は、いつの間にか、張り詰めた表情へと変わっている。ほんの少し前までは、穏やかに凪いだ、優しい海原のようだったのに。
「とっ、兎に角だ。申し訳ないけれど、僕は、キミだけの『フリーナ』にはなれないんだ。キミが、僕を好いてくれているってことは、とても嬉しく思うけどね。だから……いつか、フォンテーヌが誇るエピクレシス歌劇場で、僕たちが再会することの叶う未来が訪れたのなら、今まで以上の輝きをキミに披露し、最大級の感動を与えてみせると、この僕が約束しよう! ……どうだい?」
早口でフリーナは言った。これに、青年が肩を落とす。少々大袈裟にも見えた溜め息の後、彼はこの場から逃げ出すように去っていってしまった。終始、無言を貫いたヌヴィレットも、呆れ返った顔をしている。随分と勝手な人間だな、とでも思っているのだろう。
「……はあ、なんか疲れちゃったな」
この場に残されたフリーナが、大きく息を吐く番だった。自分のことしか見えていないような、あの青年が将来、この水と正義の地を再訪するかどうか。それは、本人を含めて、誰にも分からないことだ。
しかし、そんな日が本当に訪れるのであれば、今回のような面倒事にならないようにと、祈るばかりだ。
「……僕たちもそろそろ、パレ・メルモニアまで戻ろうか? ヌヴィレット。僕らには、まだまだやることがたくさんあるしね……」
「ああ、そうだな……」
青年との一連のやり取り。それはふたりに重たい疲労感を齎すもので、到底、休憩とは呼べない時間となってしまった。このように思っているのは、フリーナだけでは無かったのかもしれない。自分たちは一体、何の為に、外まで出てきたのやら――。
彼らは来た道を引き返していく。大空へ向かって背を伸ばしながら、ふたりの帰還を待ち侘びている、パレ・メルモニアを目指して。
今日中にやらねばならなかったこと。そのすべてを済ませたフリーナは、執務室に残るヌヴィレットに対し、労いの言葉をひとつかけてから、上層階にある自分の部屋へと戻っていった。
いま、この瞬間、街を見下ろすのは、眩い太陽と抜けるような青空ではなくて、漆黒の闇ばかりである。フリーナはテーブルの上に置かれた、一冊の本を手に取ると、ふかふかのソファに腰を下ろす。
「――」
花柄の栞によって導かれたページを、少女は小さな手で開く。
モンド人作家によって綴られるのは、直向きな愛と、幾許かの葛藤。これは巷で流行中の、恋愛小説である。
この物語の主人公は、良家の息女で、彼女が想いを寄せる相手は、ふたつ年上で、身分違いの青年。ありがちな設定ではあるが、巧みな心理描写が、読み手の心を大きく揺さぶる。
「……」
フリーナはこれまでに一度も、恋をした経験がない。だが、これも当然のことかもしれない。立場上、恋愛なんてことをする余裕など、あるわけがないのだから。
いつ訪れるのか。そもそも、本当に辿り着けるのか。それすら分からない終幕の時まで、自分は神を演じなければならない。遥かなるテイワット大陸に於いて「俗世の七執政」と呼ばれる、神々の一員を。フォンテーヌの民たちは、皆が、彼女のことを「フリーナ」としてではなく、七神の一柱「魔神フォカロルス」として見ている。
でも、いつか、僕もこの物語の主人公のように、誰かから深く愛されて、甘酸っぱい恋をすることが出来たのなら――そんなことを思いつつ、フリーナは静かに瞳を閉じた。途端に、フリーナの脳裏に過ぎったのは、自分がよく知る「彼」の姿。
「――……ッ!」
戸惑いに近いものが、一気に胸の奥に広がっていき、少女は目を開けた。繰り返される呼吸が、胸の鼓動が、いきなり速められていく。フリーナが思い描いた存在。それは、つい少し前まで一緒にいた人物――ヌヴィレットであった。
僕はどうして、彼のことを。何故、ヌヴィレットのことばかりを――。
フリーナは、ただひたすらに自問を繰り返す。自分に最も近くにいる存在をひとり挙げるのであれば、それは間違いなく、ヌヴィレットになるだろう。だが、それは、自分たちが「水神」と「水龍」であるから。フォンテーヌという国に於いて、頂点に並んで座っているから。それ以上でも、それ以下でもないはず。
だというのに、フリーナの心の中に居たのは、ヌヴィレット。彼だけだった。
「――」
最早、フリーナには認める他無かった。
自分にとって、ヌヴィレットが、誰よりも「特別」と言える存在なのだと。
色鮮やかな物語のヒロインのように、自分も「恋」をしていて、その、真っ只中にあることを。
「……」
自覚したところで、フリーナは俯いてしまった。きっと、あの主人公は最終的に、想いを実らせるのだろう。紆余曲折あっても、彼女が抱え続けた恋心はいずれ、愛という形になって、誰よりも幸福な結末まで至るのだろう。固い花の蕾も、あたたかな風の中で、開花の瞬間を迎えるように。
でも、僕は。フリーナは、顔を上げることすら出来ないまま、己の真実へ行き着く。
偽りの姿しか見せられない自分が、彼の一番になれる日なんて、来るはずもないのに。
ヌヴィレットから深く愛される自分は、テイワット大陸のどこを探しても、見当たるはずもないのに。
「う……」
気が付くと、彼女の青い瞳は、涙によって濡れてしまっていた。視界は一気に滲んでいって、見えている世界の輪郭が、次第に曖昧なものとなっていく。
これは、間違った恋。実らせたいと願うことすら、許されることのない想い。
でも――それでも、僕は、好きになってしまったのだ。ヌヴィレットのことを。
「……ッ」
フリーナはパタンと本を閉じた。栞を挟むこともせずに。そして、崩れ落ちるような形で、広すぎるベッドの上へと横たわる。
「……」
ああ、なんて、僕は愚かなのだろうか――手で拭うことすら出来なかった涙は、当然のことだが流れ落ちていき、真っ白なシーツや枕に、ほんの小さな痕跡を作って消えていく。
一歩ずつ、世界は目覚めの瞬間へと向かっていく。東の方角から太陽が昇ってくれば、新たな一日が産声を上げるのだ。そして、フリーナは、彼と会わなければいけない。当然のことだが、会話だって、自然な形でしなければならない。朝から自分たちは、ここ、パレ・メルモニアから離れて、エピクレシス歌劇場に行くことになっている。
「はあ……」
フリーナは後悔した。こんな感情なんて、気付かないままでいたかったな――繰り返し吐き出される息は重苦しく、まるで、降雨を前にした、鈍色の空のようであった。
しかし、現実というものはいつだって冷徹である。この世界は滞りなく朝を迎えた。無音で白み始めた空を、フリーナは硝子越しに見て、項垂れる。
もし、自由に恋愛が許される立場同士であったのなら、きっと、自分の方からこの想いのすべてを伝えたことだろう。キミのことが大好きだよ、と。僕の恋人になってくれないか、と。勇気を振り絞り、覚悟を決めて、想いのすべてを彼に告げたに違いない。
しかし、それは、仮定の話に過ぎない。フリーナは今も、水神の仮面を身に着けたままで、この肉体は老いることを知らない。彼女の全身に刻まれている、神からの「呪い」は、その命を歪なかたちで神座に縛り付けている。その上、ヌヴィレットは紛うこと無き水の龍。ふたりの道は、幾ら進んでいっても、望んだ未来に到らない。
はじまることすら、許されない想いだった。フリーナは何度か目を擦り、深く息を吐いてから、朝の支度を整える。その間もずっと、彼女の心の中には、暗雲が広がっていた。
ああ、こんな気持ちのまま、ヌヴィレットに会うしかないなんて。このまま誰にも会わずに、私室に籠っていたい。だが、そういうわけにもいかないのだ、はあ、とまた息を吐き出し、部屋のドアに手をかけた。大きく、それなりに重みのあるそれを開けて、廊下に出る。これが、フリーナの新しい一日のはじまりだった。
◇
予定通り、フリーナとヌヴィレットは、エピクレシス歌劇場へと足を運んだ。午前中の大半をそこで過ごして、ふたりはパレ・メルモニアへと帰還する。フリーナは、ヌヴィレットの隣で「普段通り」であることを努めた。気付いてしまった彼へ対する愚かしい恋心を、必死に胸の奥へと押し込めたまま。フリーナは立場上、そういうことが非常に得意だった。どこにでも居る、ごく普通の少女であれば、隠し通すことの難しい想いだったかもしれないけれど。
少し遅めの昼食をふたり揃って済ませると、フリーナは上階の自室へと戻っていった。
また後でね、と告げられたヌヴィレットが向かうのは、当然のように執務室である。今日付けで新たに積まれた書類は、かなりの量がある。そのすべてに目を通して、必要であればサインを入れる。見落としが無いように、注意を払いながら、処理を進めていくのだ。
同時刻。フリーナは私室にあるソファに座って、ふたつの目を閉じていた。自覚してしまった報われない恋心を抱え込んで、その想い人であるところのヌヴィレットと過ごす時間は、いつも以上に緊張した。
いつまで続くのか分からない、現実という名の舞台。弱音のひとつも吐けない。震えるこの手を握り締めてくれる存在もいない。せめて、ヌヴィレットにだけは頼れたら。そう思うことは、しばしばある。だが、実際のところは、それも叶わぬ願いだ。
「……」
よろよろと立ち上がり、フリーナはベッドの上に倒れ込んだ。そのまま、目を瞑る。そこに描かれるのは、ヌヴィレットの姿だった。そんな彼は春の陽射しのように、穏やかな目をしていた。フリーナは彼に手を伸ばしそうになって、踏み留まる。駄目だ、やめろ、と、頭の中で響き渡る、幾つもの怒鳴り声。
「――うぅ、あ……」
やがて、意識が夢の中へと落ちていく。しかし、そんな曖昧な世界であっても、少女には縋ることが赦されていなかった。色鮮やかな悪夢に押し潰されるフリーナの頬に、雫が流れていく。
――助けて。
フリーナには、この、たった四文字の台詞を読み上げることも出来なかった。それが、夢の中であっても、現であっても。
目が醒めても、彼女を待ち構えているのは、鉛色の現実だけ。そんな世界では、想いを明かせる日なんて、いつになっても来ない。ありとあらゆる偽りが解けて、真実が露呈した先の世界が本当にあるとして――そこで自分たちが微笑み合えるかどうか。それも、分からない。残酷なすべてに、孤独な少女はただ、打ち拉がれるばかりだった。
2026/06/01
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