タイピング



「ない! ない、ない、ない!」
風呂上がりだった。
ブオオ、と日本に残して来たハマー並みに激しく音を立てる譲介愛用のドライヤーで髪を乾かしていると、当の本人がドライヤーの音をかき消す勢いの大声を上げたので目を剥いた。今何時だと思ってやがるんだ、アイツは。
いくつになっても落ち着きがねえ、とまでは流石に言わねえが、普段の頓狂な声とは明らかに声量が違っている。
仕方がねえなァ。
久しぶりのあいつのやらかしを拝みに行ってやるか、と乾ききってない髪をそのままにドライヤーの電源を落とした。
首元で伸びて来た髪を軽く縛り、パジャマを着込んでリビングに行くと、譲介はいつもの食卓に使ってるダイニングテーブルからごちゃごちゃする果物籠やらパンの籠をシンク周りに退かして、寝室のいつものデスクや書棚から引っ張って来たらしい論文を広げていた。さながら論文のピクニックだ。
パソコンとタブレットは……テレビ前のローテーブルか。
何がねぇんだよ、とは尋ねるまでもねえな。
明らかに譲介が探しているのは書きかけのデータだ。
しっかし、オレがはしりのアップルⅡやらウィンドウズの95に手を出してた時代ならともかく、今のパソコンだぞ。
「バックアップはねえのかよ。」と首に落ちる雫をタオルで拭きながら尋ねると、三十路半ばの男は「徹郎さん、」と言って世にも情けない顔をこっちに向けた。
「もういい年だってのに、迷子みてえなツラしてんじゃねえぞ。」と言いながら頭を掻きまわすと、譲介はこちらを見て上目遣いになった。
「そりゃ、完璧なバックアップが見つかってたらこんなことになってません。」と言う譲介の顔は見事にアヒル口だ。
「全く取ってねえってわけでもねえんだろ。」と言うと、相手はため息を吐いた。
「クラウド上にもバックアップがあるにはありますけど、十二時間前のモノですし、取り出すには朝倉先生のコードが要るんですが、先生は出張中で連絡が付かない。一度職場に戻って、緊急だからって僕の名前だけでどうこうするのは無理です。」
セキュリティ対策か。
オレがなんとかしてやろうかっつったところで、首を縦には振らねえだろう。この先のことを考えりゃ、裏口からデータを盗むような真似をする訳にもいかねえか。
「プリントアウトしたデータは?」
昨日は、ガチャガチャと作動させたままのプリンタの音と共にベッドに潜り込んできて、寝しなに腹やら胸やらを好き勝手に触って来やがった。安眠妨害甚だしいが、あのタイミングのプリントアウトがどこかにあるなら、ある程度のサルベージは可能だろう。
「昨日の夜印刷したデータじゃないんです。三日か四日前、一度印刷して、紙挟みに挟んで置いておいたはずで、と思っていたんですが、その紙挟みのどの隙間にも入ってなくて。どこかに置いておいたにしても、遠くでもないと思うんですが。」
プリントアウトした紙が解決策ってんじゃなあ。ため息を吐きたいような気分で「一昨日よりも前の話かよ……。」と言った。
記憶が心もとない、と正直に話すつもりもねえが、実際のところ、一昨日の昼飯のことを今から三秒で思い出せと言われるようなもんだ。去年の正月にしたねちこいセックスのことは思い出せても、毎日の細けえ話になると記憶のピントが合う瞬間より、あやふやになっちまってることの方が多い。
そこまで考えて、ちらりと、何かが頭をよぎった。こういうタイミングで感じる違和感は、どちらかと言えば直感や勘に近い。
だとしても、その直感が示した道の先の「何か」にすぐにたどり着けるとは限らない。
唇を噛んで黙っていた譲介が、ふと顔を上げた。
目と目を見合わせる。
「徹郎さん、もしかして何か思いつきました?」
「ゴミ箱を漁った方が早いんじゃねえか?」
苦し紛れに口を吐いて出て来た言葉に「ゴミ箱? もしかして、捨てたんですか?」と鼻息荒く譲介が詰め寄って来る。

……しまった。
瓢箪から駒。あるいは藪蛇か。こいつと暮らすのがこういうドタバタの連続だってことを、忘れてたわけじゃねえが。
「おめえが探すような棚にありゃ、オレだって大概のモンは捨てはしねえ。だが、もうゴミ箱に入ってたら、明日の朝には捨てちまうだろうが。」と自分に言い聞かせるようにして言うと、確かにそうですね、と譲介は考えるような顔つきになった。
こうなりゃ、一蓮托生だ。
「一緒に探すか?」と聞いてみると、譲介は頷き、ダストボックスの蓋を開けた。
そっちはどうだ、と尋ねると、思った通り生ゴミばかりで、と譲介は首を振った。
それはそうだろう。昨日作ったカレーのジャガイモの皮の切れ端が見つかったところで、今の問題解決の何の足しにはなりゃしねえ。
「ゴミ箱置いてある場所は、他はベッドサイドか。」
「……流石にあそこにはないんじゃないですか。」
譲介が、返事に言い淀む理由は分かっちゃいるが、おめぇがそれでいいってんなら構わねえけどよ、と気のない返事をしたところで、他に見つからねえってのなら探しに行くしかない。互いのザーメンまみれの論文が底から出て来たところでオレの責任は半分だ。
まあ、先にこっちだな、とローテーブル横の屑籠の中を覗くと、思った通りほとんど残ってねえ。ここはナシだな、と思って振り返ると、譲介の足元に屑籠が見えた。
「譲介、」と名を呼ぶと「あ、はい。」と生ゴミ用のトラッシュボックスの奥に手を突っ込んでいた譲介が顔を上げる。
「そこのゴミ箱になんか入ってねえか。」
「はい。」と言って作業中に手を洗おうとする譲介を制して「いや、いい、オレがやる。」と言うと、譲介はお願いします、と言って、いつものように笑う代わりに、最近流行っているキスマークを器用に指先で作って寄越した。余裕があるのかねえのかはっきりしろという感じだ。
そういえば、一週間ほど前、カレーと一緒にいつものばあさんが送ってきたかりんとうをあっちのテーブルで食ったな。帰宅早々、妙に甘いもんが欲しくなって封を開けたら、譲介におおかたは残そうと思っていたのが、気が付いたら半分になっていた。確か、残りはいつもの缶に入れて仕舞っちまったはずだ。思った通り、白くて四角い屑籠の底の方には、例のかりんとうを乗せた紙がまだ残っていた。
その紙ゴミを引っ張り出したところで「そ、それっ、」と譲介が叫ぶ。
「はァ?」
「……僕がプリントアウトしたデータです!」と言って、譲介が紙束をひったくった。
上が白いからすっかり印刷前のもんかと思って引っ張って来たのだが、どうやら違っていたということが譲介の安堵した表情で分かった。
「徹郎さん、油染みがありますけど……まさかこれ。」
「悪ぃな。カレーと一緒に入ってたかりんとを食うのに使った。」
「…………かりんとう、ですか。」
「おお。」と頷く。
はあ、と譲介は長い長いため息を吐いた。
「おめぇも食うか?」
「ありがたいですけど、後にします。もし良ければ、僕の分は少しだけ残しておいてください。この論文が仕上がったら、一緒に食べましょう。」
譲介はそう言って、背伸びをしてTETSUの頬にキスをすると、立ち上げたパソコンをダイニングテーブルに戻して、鬼神のようにキーボードをたたき始めた。
まず手を洗え、だの、おめぇが食う前にすっかりなくなっちまうぞ、だのは流石にこのタイミングで言ったところで耳に入りそうもない。譲介の背中を見ながら、TETSUは頭を掻いた。髪は、すっかり乾ききっている。
先に寝るからな、と小さく言って、ベッドに入る。隣で寝てりゃいいのに、と布団を被り瞼を閉じると、遠くから小さく、譲介が仕事をする音が聞こえて来た。
羊を数える代わりに、その小さな音に耳を澄ますと、TETSUの意識はゆっくりと暗闇の中に溶けて行った。

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