俘因

 あいつは俺のことをよく見ている。こっちがどんなに目を合わせなくても頑ななほどに視線が刺さる。
 気づいているが気づかないふりをして声をかけてやると慌てたように目を逸らすのだから、俺を見たいのか見たくないのかどっちなんだと叱ってやりたくなる。仕方のない女だと鼻で笑って離れても、お前はいつまでも俺を見ている。
 あいつはきっと俺が欲しいんだ。
 物欲しそうに追い縋るその熱のこもった視線はちりちりと肌を焼く。その痛みがいつの間にか心地よく感じて全身を焼き尽くしてほしいために俺はお前の視線に気づかないふりをして大人しくその愛憎に似た業火のなかで踊ってやっている。
 もしもしっかりと見つめ合いお前の熱で瞳を焼かれたらどれだけ痛いだろう。想像するだけで冷や汗が流れるというのに腹の奥のもっと底の方では沸くような興奮が俺を昂らせていた。
 あいつが今日の宿の部屋へひとりで入っていった。こんな時間までどこへと思ったが風呂屋にでも行っていたんだろう。昼間と違って無防備にほどかれた長い髪が歩くたびに靡いているのが分かった。
 夜のように美しい髪だった。その髪を撫でてやったらお前はどんな顔をするだろうな。俺があんまり優しく触れることに驚いて顔を赤らめるだろう。いつもよりやわらかなけれど欲のこもった熱視線でこちらを見つめて腕の中でされるがままになることを求めるはずだ。
 あいつのことを見たい。今度は俺が、刺すほどに見てやる。
 襖がぱたりとしまったのを確認してそこへ向かった。しょぼい宿の廊下には灯りなどない。しかし俺にはかすかな月明かりだけで十分だった。
 あいつの部屋の前に辿り着く。この襖を開ければお前がいる。驚いて俺を見て、それから。
「おい尾形。そこは   さんとアシリパさんの部屋だぞ」
 襖の取っ手に手が届かなかった。俺の腕を折りそうなくらい強い力で掴む手を辿ると機嫌の悪い顔をした杉元がいた。
 思わず舌打ちしそうになるのを堪えてフゥ、と息を吐く。振り払うようにして杉元の手から逃れた。
「アシリパなら白石と花札をしながらそのまま2人で眠ってるぞ」
「げ、また寝落ちかよアシリパさん。白石まで…」
「だから今はこの部屋にはあの女ひとりだ」
「おい待て、待ちやがれ。それなら尚更部屋に入っちゃダメだろうが」
「なんでお前にそんなことを言われなきゃいけない?」
「は?当たり前だろ。年頃の女性の部屋に、しかもこんな夜更けに堂々と出入りしようとするんじゃねえよ」
 話にならないと思った。普通の男女ならそうだろうが俺とあいつじゃ事情が違う。今もひとり、窓から夜空を見上げて俺のことを思い出しているに決まっている。
 杉元のほうを向いて一歩近づく。気に食わないその顔をできる限り無表情のまま睨みつけると好戦的なこの男も負けじと鋭い目をして睨み返してきた。
 そもそもずっと気に食わないのはコイツだ。まるで俺を遮るようにしていつもあいつの側にいる。何かあればいつもすぐに名前の元へ駆けつけて自分だけが守っているような素振りを見せつけてくる。
 そんなことをしたって名前が見ているのは俺だというのに。おそらくその事実が気に食わないんだろう。男の嫉妬なんて醜いだけだ。気に入らない。
「名前に話がある」
「どんな話だよ」
「野暮な奴だな。知りたいのか?」
「……尾形」
 杉元の手が首を締めるかのようにして俺の胸ぐらを掴んだ。宙に浮かそうとでもするくらいの力を持って俺を捕まえる。
 無遠慮に寄せられるその顔にはさっきよりも殺気が込められていた。今から殺し合いでもしようっていうのか。そんな皮肉を込めて口元だけで笑ってみせると胸ぐらを掴む力がさらに強くなった。かすかに右足が浮いてこいつが本気だということが分かる。
 ぎりぎりと音を立てるその腕を掴み、同じくらいに強い力を込めて引き離そうとするが、コイツも引き下がる気はないようだった。
「お前、いい加減にしろよ」
「こっちの台詞だ。毎度毎度邪魔しやがって」
「   さんがお前を怖がってるの分かってんだろ」
 口元だけじゃなく、口角が、顔の筋肉から動くのが分かる。
 俺のその表情に煽られた杉元はさらに殺気を強める。このまま放っておけば首を締め上げて殺されるだろうな。そうなったら誰のせいで死んだことか分かるようにちゃんと最期にお前の名前を呼んでやる。俺の終わりの声を聞いて、優しいお前はそれを忘れられなくて、ずっとこの声を反芻してくれるんだろう。
 俺を見つめるあの目が忘れられない。
 お前の目の前で、お前を傷つけてばかりのくせに恋人を名乗る男を殺してやったあの日にはもう、まあるい瞳とまつ毛を震わせて俺に釘付けになっていただろう。少しでも目を離せば今度は自分が同じように殺されると怯えているんだろう。そんなことするわけがないのに、お前は俺がぐちゃぐちゃにしてやった名前も知らない汚い男の顔を思い出しては自分と重ねているんだろう。
 そんなことするわけがない。お前には、お前にだけは。俺から逃げないのなら。
 襖の向こうへ、聞こえるように声を上げた。
「   、起きてるんだろう。なあ、   」
 すかさず顎を掴まれ骨が軋む音がする。目の前にいる杉元はひどく滑稽な表情で俺を睨みつけていた。

powered by 小説執筆ツール「notes」