計画

「なあ、今度おちび連れて旅行に行かへんか?」と聞かれた時、やけに珍しい話だなと思った。


あの失踪の後も、時々この人は僕らの前から姿を消すことがあった。
なんや寂しなって、小浜来てしもた、という言い訳で、前振りもなく部屋を留守にするのだ。
ほぼ一緒に暮らしていると言っても、お互い部屋は別々なわけで、毎回お前んとこで食わせてもらうのもなあ、と妙な遠慮のフリをしながら、若狭の娘の顔を見に行くという離れ業をやってのけたり、子どもを同じ日暮亭の二階に預けて出て行くようにはなっていたので、突然の不在も随分と計画的にはなっていた。
それでも、唐突なことには変わりがない。僕が大阪の外に仕事に行って、二、三日家を空けて戻って来たら、家は空っぽで、明かりもついておらず、子どもの手できちんと角まで折畳まれた洗濯物が部屋の隅に置いてある。
そういう真っ暗の部屋に帰った瞬間の、心に吹きすさぶ嵐のようなものをどう表現したらいいのか。
寝床へ行ってしまったのかとあの人の携帯に電話を掛けたら、若狭の叔父が出て、どうやらいつもの客間では焼き鯖を肴にした大宴会中で、どんちゃん騒ぎをしている様子で、いつもの調子で「どうも、小浜の和田です~。」と言われた日もあった。(あの時に今のスマートフォンを手にしていたら、僕は間違いなく画面を叩き割っていただろう。)


「どこか行きたいとこでもあるんですか。」と尋ねると、稽古に使っていた座布団を部屋の隅に片付けていた兄弟子は「問題はそこやねんな~………。」と言葉を濁した。
妙に歯切れが悪い。
こっちは一緒に行けるならどこでもいいのだが、目的地がどこかは、先にはっきりさせて欲しかった。
問題、といえば一番に考えられるのは予算で、次はパスポートだ。
予算が気になるとなれば、沖縄に北海道と言った本州からは外れた場所で、そうでなければ海外だろうか。
半月前にレンタルで借りて来たDVDを子どもと並んで見ながら、「人生に一遍くらいはみんなでハワイ行きたいなぁ。」「そうやなあ、オレがいつか連れてってやるわ。」「そんなら、オチコのとこの皆も一緒でええ?」と呑気な口調で話していた。
差し当っての暮らしには困らないとはいえ、この平成の時代の泥棒が驚くほどの貯えもないくせに仕事を一週間も休んで、子どもにも学校を休ませて行くようなハワイ旅行の計画なんてものは、僕には正気では考えられないことだが、この人は、子どもに対しては本人の好きにさせてやりたい、というスタイルを貫いている。
子どもと僕には、パスポートがないが、ここは梅田の中心地で、地下鉄で行けばパスポートセンターのある谷町四丁目はそう遠くはない。作ろうと思えば、どうにかなってしまうのが逆に困りごとだった。明日にでもハワイに行きたい、と言い出せばまあ逆に無理です、の一言でも済むのだけれど。
思えば、この人は売れていた時期には、月に二日の休みを取れたらいい方で、そもそも、行きたい場所には思い立ったらということのない人だった。例外は、あの焼き鯖を食べに行った小浜くらいか。若狭の、生まれ故郷というだけの話でもなく、自分で行きたい、と思い、行くと決めた場所だからこそ、どれだけの時間が経っても、あそこが特別なのだろうという気がする。
かつてのこの人は、毎日毎晩、僕に車の鍵を預けて、通勤――本来、落語家のような生業の人間からしたら、最も縁遠い言葉のはずだった――の足に良いように使ってはいたものの、稽古場に寄りますか、という言葉を無視して、稽古の終わった僕を飲み歩きに付き合わせようとして、結局は疲れた体を抱えてあのマンションに戻り、ますます、元から嫌いな稽古からは縁遠くなっていったのだった。
あの時代に、適切なタイミングで、今のようにふらっと自分の気の赴くままにどこかへ行く、ということを思いついて、抱えていた多くの仕事や、元の生業からのガス抜きが出来てさえいれば、何かが違っていたのではないかと思わないでもなかった。

「行きたいところ、当ててみせましょうか。」
「今日は強気やな。」と相手は笑いながらいつもの場所からいつものパジャマを引っ張って来た。
お稽古の前に浴衣着てる方が気分出てええか、と言って、このところはかつての妙ちくりんなひょっとこの顔が描かれた文様の浴衣をよく身に付けるようになった。ひと段落ついたところで、紐をするすると解いてレモンイエローのパジャマに着替えるところを間近に見せられている方が『そういう』気分になってしまうこちらについては、慮外のことと言う訳だ。
年下の兄は、したくない日に肌に触れると、毛を逆立てた猫のようになるので、そこのところの見極めが終わってしまうまではなるべく大人しくしておくことにしているが、端的に言えばストリップに近いものを見せられるとどうにも理性を保つのが難しい。
「予想が当たる気がするので。」とそうした内心を面に出さずに僕が言うと、兄弟子は、お、と眉を上げた。
「今日は賭けるか、て言わへんのか?」
兄弟子は、前ボタンを留めながらにやにやと笑っている。行為の前にパジャマを脱がせる段になると勿体を付けるくせに、こういうのは昔の癖もあるのか、素足を見せても全く気を抜いた感じでいるところが憎たらしい。
「ふたりしかいないのに、賭けたところでしゃあないでしょう。」
足から目を逸らすところを気取られたくなくて、僕は流しに立って水を飲みたいような素振りで距離を取った。
「お前の考えてるとこでは、当たらへんと思うけどな。」と兄弟子はこちらの気を知らぬ様子で煽って来る。
「賭けますか?」
「うどんか? お前のとこの部屋の冷蔵庫におあげと冷凍のが二玉、まだ残ってたやろ。当てたら、あれオレが作ったってもええで。」
「今日は別のものがいいです。」
「そうか……? 月末やから、大層なもんは奢ってやれへんぞ。」と財布の中を勘定しているような顔になった。
「兄さんはうどんでええんですか?」
「お前と同じもんでええわ。どうせ外れるやろ。」
心の中で、いいから早く下を穿け、と思ったのが効いたのか、男は、口笛を吹きながらズボンを穿いている。
それから、余裕綽々の顔でちゃぶ台の前に胡坐をかいた。
「ハワイと違いますか?」と隣に座ると、「違う。」と答えが返って来る。
「そんなら、三回まで答えてええで。あと二回や。」
問いを出す方にアドバンテージがあるのは当たり前の話だが、それにしても、今日は妙に、自信満々だ。
「小浜?」
「それやったら賭けにならへんやろ。」と言って、はは、と楽しそうに笑った。
お前と、もう一遍行きたいとこがあるねん、と言って兄弟子は笑っている。
その小憎らしく可愛い顔を見て、我慢が出来なくなった。趣味の悪いレモン色のパジャマの襟首に手を回して引き寄せると「どこですか?」と尋ねる。
「後一回で当てられたら奢りやで、」という男はどこかまだ笑ってる気配があって、そのまま唇を重ねた。
舌を差し入れると相手のそれが絡まって来て、歯磨き粉の味がする。パジャマの下の肌は、女とは違う手触りで、それでも、今は僕の手にそれなりに馴染んでいる。
止め時が分からないままに相手の口の中を貪っていると明らかに下半身が張りつめて来たのが分かった。
唇を離し、九割方は本気の顔で「この間のホテルなら今すぐ行きましょう。」と言うと「ドアホ、お前の負けや。」と言って涙目になった相手からは軽い頭突きが返って来る。
「なんやねんもう、」という顔が真っ赤になってはいるが、普段のように照れた気配ではないことは、今の全く力の入っていない頭突きで伝わって来た。
「泣くほどのことですか。」と言って目尻に浮かんだ水滴を拭うと、顔を逸らされる。
「お前はもう、……いつまで経っても馬のホネかい、」
鼻を啜っている兄弟子に、胸のところを握った拳で叩かれて、ついさっきこの人の口から出た『また』という単語に、やっとピントが合った。

突然のガス欠に見舞われて、暗い夜道を、草原兄さんと三人で、懐中電灯ひとつを恃みに歩いた。
口に合わない鮒ずしの味を、日本酒で流し込むようには出来ず、父のような年の人に、僕にはふるさとがないと告白した夜に。
僕は、あの下手くそな誕生日の歌を聞いた。
日本海側にしては美しく晴れた帰り道の、田圃の上に伏せて並んでいた細い竹のことも、二度と忘れないだろうと思っていたのに、今の今まで、すっかり忘れていた。

――狐に化かされていなくなってしまえばええのに。

目の前の人に投げた言葉が、十数年を経て、こんな風に自分に返って来るとは思わなかった。

「安曇川、ですか?」
「これだけヒント出しといて、それ以外にどこがあんねん。」
唇を尖らせている相手を見ていると、見ているだけでは何かが足りないような気がして、とっさに目の前の身体を抱きしめてそのまま畳の上に転がった。
「おい、こら、しぃ、お前何してんねん。」
放せ、苦しい、と言いながら、猫のように暴れる人を捕まえる。
「こっちはなあ、あの家探して、おちびの誕生日来る前に、扇骨をもう一組貰いに行くつもりでおったんやで。」
覚えてんのはオレだけかい、と言われては、言葉もない。
一人の女と続いたことのない僕がこうやって暮らしてるだけでもこれまでにはないことなのに、もう今になって馬の骨でもないでしょう、とは思うが、今日になって殊更に馬の骨と言い出したこの人の気持ちを考えれば、口に出す時ではないことくらいは分かる。
このボケナス、と耳馴染みのあるチンピラ風の口調で言われて、もう散々だ。
「やり直しをさせてください。」と申し出ると「どこからじゃ。」と問われた。
「どこから、て。」
他にはどうやって機嫌を取ればいいのか分からない。僕はため息を吐いて顔を寄せ、今夜二度目になる、キスをした。
なりゆきで始まったキスに、歯磨き粉の味はもうすっかり薄れてしまっていて。
僕は、段々と熱を帯びていく身体に触れながら、頭の隅で、鮒ずしを食べた後のこの人ともこうしてキスが出来るだろうかと、ぼんやりと考えていた。

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