きみがそばに
日光くんが蕎麦打ちにはまった。
いっしょに住みはじめてから十五年ほどもたった今、おれらも蕎麦打ちをはじめても全然おかしくない年ではある。あるけれど、にしても想定外に派手にはまった、というのも事実だ。
「――ごっちん、そばアレルギーってある?」
区民農園での収穫作業を終えた日曜の昼下がり、野菜かごを抱えたまま気軽にうちの勝手口に入ろうとしているごっちんの前に立ち塞がって、おれはきいた。アレルギーのあるなしはいつだって大事だけど、今日ばかりは絶対にきかなくてはいけなかった。
「え? ないよ、今のところ。猫アレルギーは相変わらずだけど……って、急になに?」
「や、さいきん、日光くんがそばに凝っててさぁ……毎朝、石臼で蕎麦粉ひいてるんだよね」
「石臼?!」
「そ、石臼」
蕎麦アレルギーだったらたぶん、うちのドアあけただけで具合悪くなるんじゃないかってレベルで、うちじゅう蕎麦まみれ――目をまるくしているごっちんの手から夏野菜の入ったかごをとりあげて、おれは勝手口の引き戸をがらりと開いた。食堂にいたとおぼしき日光くんが台所の玉すだれ越しに顔を出し、おかえりなさい、と几帳面に挨拶してくれる。例によって食卓で蕎麦生地をのばしていたのか、日光くんの指先は打ち粉でまっしろだ。
「ただいま。いまきいたけど、ごっちん、そばアレルギーないって」
心得ました、と日光くんは力強く頷いて作業に戻っていった。コンロの上ではいつもどおり、たっぷり水が入った大きな鍋がそろそろ沸きそうで、その脇では出汁からとったつゆが良い匂いをさせている。ごっちんは困惑したように周りをきょろきょろ見回した。
「……まって、いま午後三時だよ?!」
「ん、おやつにおそば」
ごっちんは、「いいよね」とたずねるおれの目と、台所に大量に置かれた蕎麦打ち関連の道具たちを見て何かを察したらしい。
手を洗って食堂に行ったおれとごっちんは、いかめしい顔で蕎麦の生地をのばす日光くんの向かいの椅子に座り、特等席から無言で蕎麦打ちを眺めた。
綺麗な長方形になっていく蕎麦生地を呆然と眺めているごっちんを視界に入れつつ、きょうの付け合わせはなんにしよ、とおれは考える。まあ、なんにもなくても日光くんのおそばはそれだけでおいしいから――。
いいのかわるいのか、日光くんの打つ蕎麦はうまい。
本当なら蕎麦を打てるようになるまでには汗と涙の日々があるはず――則宗とかの話によると、蕎麦を刻む包丁さばきを習得するのに三日、生地をのばせるようになるのに三か月、こねに至っては三年かかる、とか昔の人は言ったらしい。とはいえいまどきは動画なんかも色々あるから、色々とやりようはあるらしく、気づけば日光くんは素人とはとても思えない腕前になっていた。
はまった当初はまず、道具をつぎつぎ買ってきた。蕎麦をカットする以外になんにも使い道のなさそうな巨大な包丁を河童橋で調達してきたと思ったら、それ以外のものもなんだかんだプロ仕様のをじわじわ揃えて、いまでは麺棒まで何種類もあるくらいだ。
宅配で石臼がやってくる頃には、素材へのこだわりも高まっていた。業務用の量の蕎麦粉を抱えて、これを台所に置かせてほしい、と頭を下げてたと思ったら、それを使い切るより先に丸のままの蕎麦の実を仕入れてきた。精米機なんかを駆使しながら殻を取り除き、粉に挽いている。
もちろん、技術の鍛錬だって忘れてはいない。打ち時間を縮める(手早くやらないと美味しくないのだ、と日光くんは言っている)ため、打ち粉を舞わせながら黙々とこね、延ばし、筋肉痛になりそうなほど練習を繰り返していた。最近は一周回ったらしく、「今になって包丁入れの奥の深さに気づきました」などと言って切り方の研究をしている。
そして、そのかいあってか日光くんの蕎麦はうまい。おれが打ち立てを食べているからもあるけれど、今となってはプロの打った蕎麦と混ぜても正直わからない、と思う。とある蕎麦屋から取り寄せたやつだ、と則宗をたばかって食わせたら、本当に美味かったからどこの店のか教えてくれ、と言ってきたくらいだ。
日光くんはそれでも調子に乗らず、昨日も真面目に蕎麦を打ち、今日もこうして蕎麦を打ち、明日も仕事前と仕事のあとに蕎麦を打つだろう。
なまじうまいからおれは止める気にもなれないけれど、問題があるとすれば、これだけ凝りはじめた動機がどういうものか、というところで――。
とんとん、と軽快な包丁の音に目を上げる。見れば、日光くんは早くも生地を綺麗にたたみ終えて、蕎麦を細く切りはじめたところだった。右手に包丁、左手に小間板(切るときの基準にするやつだ)を携えた姿はすっかり板についている。ゆで時間を考えてもあと五分もかからない、と判断したおれは、薬味の準備をするべく腰をあげた。
「……おれ、ネギ取ってくる。ごっちんもきな」
勝手口の外に出るとごっちんは大きく息をついて、日光くんはなにがどうしたの、と言った。
「お店のひとみたいなパフォーマンスだったけど、いつからああなの? 日光くん、ぜんっぜん料理しないっておつう言ってたのに、どういう心境の変化? ていうか台所が蕎麦打ち小屋みたいになってたけど、あれでおつう毎日料理できんの?」
べつに日光くんは料理できないわけじゃなくて、忙しくてできなかっただけだし、といいながらおれはプランターに埋めておいたネギたちから土を払いのけた。
「にしても、なんであんなことになってるわけ?」と、ごっちんはビビりかけているときの声でいう。
おれは、これから使うネギを洗いながら、「けさ打ったおそばがまだあるけど、みんなのも持ってくでしょ」とだけ言った。
「あと、そばがらもあるけど。枕とかにする?」
ごっちんはまだなにもかもを信じられていない様子だったが、おれまでこの調子となるとさすがに逃れられない運命だと悟ったらしい。「おそばだけもらえたらじゅーぶんです」とやけに神妙に言った。
台所にもどると、すでに日光くんの蕎麦は打ち上がっていた。日光くんはコンロの横にたって、ペットボトルからボウルに水を注いでいる。ゆだった蕎麦を冷やす準備だ。「ミネラルウォーターで冷やすんだ……」と呟いているごっちんにネギを切るよう指示して、おれは冷蔵庫から丸のままの生わさびを取り出した。気もそぞろでネギを手に取ったごっちんは、おれの手元を覗き込んで、鮫皮のわさびおろし――お察しの通り、日光くんがさいきん買ったやつ――をまじまじと見ている。なんでこんな凝ってるの、と顔に書いてある。それもまあ、もっともな疑問かもしれない。
実際のところ、蕎麦打ちにはまった理由をきいても、日光くん本人はおそらくろくな答えをくれない。おれがきいたときも、「インターネットで『四十代からの趣味』で検索したら出てきたものですから」というようなことしか言わなかった。
けれども、あれだけどハマりした直接のきっかけは明らかである――長らく直属の上司だった山鳥毛が某務省を辞めたからだ。後任の上司が来て三日も経たずに、日光くんは蕎麦打ちをはじめた。
もともと日光くんは山鳥毛を追いかけるかたちで上京して同じ大学に入り、国家公務員のキャリア試験を受けるくらいには、山鳥毛の下で働きたがっていた。
きくところによれば、公務員なら将来安泰だと思いこんでる世代のひとりである則宗すら、日光くんに関しては官僚よりも民間の方がいいと思っていたようだ。「山鳥毛のところに配属されりゃいいが、役所ってのはそういう場所でもないだろ。お前さんはこれだけ英語もできて度胸があるんだから、商社でもなんでも……」と何度も諭していたけれど、日光くんははねつけた。どうしても、山鳥毛のもとで仕事がしたかったらしい。
熱烈なアピールと下準備の甲斐あって、日光くんは山鳥毛と同じ省庁の同じ部署に配属され、それから二十年近くにわたって、とにかく山鳥毛を支えるためにひたすら頑張ってきた――といえば聞こえはいいが、頑張りすぎてきた、というべきではないかとおれは思う。
日光くんとおれが一緒に住み始めてだいぶ経つが、省庁の働き方改革なんてものがあるとか嘘じゃないのか、とたびたび疑うくらいには、激務の日々がずっと続いてきた。
国会の炎上案件に度々入らされ、深夜まで泊まり込みなんか当たり前、海外旅行どころじゃないから得意だった英語もほとんど錆び付いてしまった。別に貧乏ではないけど、日光くんの大学の同期が行ったような会社に行ってたら、同じ残業時間でも三倍くらいは稼げてたんじゃないか、とは思う。
おれと住み始めてからはあれでも週に四日は帰宅するようになっただけ遙かにマシになった、と山鳥毛がしみじみ言うのを聞いて、同棲当初のおれは心底引いた。そんな変化があったなんて、まったく気付かなかった。そもそも週四日も帰宅できることをよろこばしいと思うという感性はおれにはない。そういう感性が欲しいとも思わない。同棲当初のおれは、こんなに働いているのに週に三夜も泊まり込みしないといけないとか何かが本当におかしいのではないか、と真剣に考えて、厚労省にカチコミをかけそうになっていた――かけとけばよかったかも、と、今も時々思うくらいだ。あんなふうにしないとまわらない職場とか、こっちの家庭を何だと思ってるんだろう。
でも、これまで十五年ほど一緒に住んできて、日光くんが一番嬉しそうだったのは、山鳥毛の課の課長補佐になれた、といってきたときであるとおれは言い切れてしまう。だからこそ、そんな職場今すぐ辞めな、と迫ることも、霞ヶ関にカチコミをかけることもできずにきたのだ。そのくらい、山鳥毛のために頑張る、というのは日光くんにとって大きいことだった。
その山鳥毛が先月、早期退職した。
本当に突然のことだった。日光くんは仕事の話はそんなにしないひとで、せいぜい「来週から出張です」とか「来月昇進します」くらいしか言わないから、山鳥毛が早期退職の話を日光くんにしたタイミングはおれにはわからない――が、察しはつく。
おそらく山鳥毛から話があっただろう日は、七月上旬の日曜日だった。
世間的にはいちおう休日なので、かろうじて日光くんも電車があるうちに帰ってきた。その日はおれもしごとのあとにバイトがあって帰りが遅く、日光くんに少し遅れて家についた。
コンポストの生ゴミのようすをみたあとで、勝手口の鍵をあけて台所にあがると、日光くんがシンクの前に仁王立ちして、鬼気迫る表情で蛇口を磨いていた。
「ただいま……なに、また炎上案件?」
国会で大変な案件があると日光くんは目に見えてやつれ、水場の掃除をしだす。だが、今回は少し様子が違った。いつもなら多少は状況を説明してくれるところ、その日は顔もあげずに、「申し訳ありません、今はまだ詳しくはお話しできないのです」と妙に上の空の調子で言って、けんけんが編んでくれたアクリルたわしを片手でぎゅっと絞った。拳の隙間から垂れたしずくがシンクにぼたぼた落ちる。おふろがわきました、と訴える風呂のタイマーがいやにうるさくひびいた。
「そ、ならしゃーないけど……。おふろ、湯の花入れたら?」
湯布院のやつ。なんか疲れてるみたいだし、とすすめると日光くんはいやに素直に頷いて、いつになく気もそぞろのようすで手をすすぎ、すごすごと風呂に去って行った。
食洗機からお皿を出していると、急に、風呂場の方で日光くんがアッと叫ぶ声がした。
「どしたの?」
脱衣所に頭を突っ込むと、まだちゃんと服を着ている日光くんが風呂場に立ちすくんでいるのが見えたーー片手に入浴剤のでかい袋、片手にふろおけの蓋を持っているけれど、肩越しに覗く広いふろおけにはお湯のかげもかたちもない。湯船に栓をしないままお湯だけ入れてしまったのだ。すみません、と呆然と呟く日光くんの眼鏡が、無駄になったお湯の名残の蒸気でわずかに曇った。
日光くんの名誉のために言っておくが、こんなことは十五年間ではじめてだった。一緒に暮らすようになってからずっと、比較的早めに帰れた日の日光くんは自主的に風呂を沸かしてくれているが、知る限り毎回毎回ちゃんと指さし確認をしていて、栓を忘れたことなんて一度もない。
おれはかなりびっくりしていたが、おれ以上に日光くんの方がびっくりしているようだったので、「ま、そゆこともある」と慰めて風呂を入れなおした。なんせ今年は通常国会が長引いたままもう、七月だ。日光くんだって疲れているだろう。
風呂から出ると日光くんはすぐに寝てしまい、次の朝の六時前におれが目覚めたときにはすでに出勤したあとだった。
日がのぼったら暑くなりそうな空模様だったので、おれは眠さをこらえてサンダルをつっかけ、庭の畑の様子を見にいった。あさごはん用のだしに使うナスとキュウリと大葉を収穫しながら、ふと生け垣の外に目をやった瞬間、へんなことに気付いた。きちっと揃えて縛り上げられた紙ごみがうちの前に並んでいる。あの新聞の量のやばさ、肥料の段ボール、あきらかにうちの雑紙だ。出勤前に日光くんが出していったに違わないけど――いや、なぜに今日?
たしかに、冷蔵庫に貼ってある区のゴミ出しカレンダーには、今日がリサイクルごみの日だと書いてある。けど、それとは別で、毎月第二週の土曜日、公民館前の広場で近所のこども会の資源回収がある。回収量に応じてこども会にお金が入るというので、おれたちはいつもそちらに紙ごみを出していた。盆おどりの夜にこども会が小さい子たちに配る駄菓子の詰め合わせなんか、でかければでかいほどいいに決まってる、というおれの意見は日光くんももちろん知っている。それどころか、残業のあいまを縫って、「明日の資源回収に向けて、できる限り今夜は帰宅します」とかいう意気込みを連絡してくることもあるくらいだ。本当に日光くんはどうしたんだろうか。
そのときは不思議に思ったものの、雑紙を物置に戻して台所に戻り、ナスとキュウリと大葉を刻んでいるうちにいったんは忘れてしまった。なんせ日光くんはそれから二日連続で深夜残業だか泊まり込みだかの憂き目にあっていて、顔をあわせることもなかったのだ。
翌々日の深夜、日光くんがいたらうける、と思いながら食堂のテレビで通常国会の録画を流し見していると、急に携帯に電話がかかってきた。山鳥毛だった。おれが日光くんの安否確認をするよりさきに、「職場を離れることにしたので、我が翼ときみには迷惑をかけると思う」とためらいのない口調で言った。おれはすべて合点がいった。このひとがいなくなるとなれば、そりゃ、日光くんは落ち込むどころじゃないだろう。
茫然自失で国会でやらかしたりしないといいけれど、とか思ったけれど、何もすることはできなかった。なんせ、転職先の都合なのか知らないが、はやくも来月には山鳥毛は有休消化に突入する予定で、引き継ぎのために日光くんは連日職場に泊まり込みになってしまったからである。
怒濤の一ヶ月を終えた山鳥毛が有休に入ったのは、それからきっかり一ヶ月経ったお盆の頃のことだ。暇ならけんけんとお祭りでも行ったら、と連絡したら、岡山に引っ越すことになってしまって準備で忙しいという。しょうがないのでおれも剣道具屋の店番の間を縫って荷造りを手伝いにいった。
梱包作業のあいまに山鳥毛から聞いた話によると、退職を考えていると山鳥毛が切り出したとき、日光くんは、ちゃんと山鳥毛の背中を押したらしい。これにはおれもさすがにおどろいて、引っ越し蕎麦に載っていた天ぷらをあやうく床に落とすところだった。
ふつう、あれだけ慕い倒していた上司がやめたがっているとなれば、全力で引き留めてもおかしくないと思う。というか、日光くんは絶対にそうしているだろうとおれはにらんでいた。だが、実際の日光くんは、山鳥毛の意思がかたいと理解するやいなや「後事はすべて私にお任せください」とうなずいて、一言も反対しなかったという。
急ぎの引き継ぎがどうにかなったのはすべて我が翼のおかげといっても過言ではない、としみじみ言っている山鳥毛を前に、おれはなんと相槌を打ったらいいかわからず、のびきった引っ越し蕎麦を黙ってすすった。官僚なんか大変だからやめなよ、身体壊す前に岡山帰ってゆっくりしなよ、と、ずっとずっと前から山鳥毛に言っていたのはおれだったからである。
家に帰ったのはだいぶ深夜だった。重い物を運んで身体をうごかしたわりに、その夜は妙に寝苦しくてなかなか眠れなかった。
二時ぐらいに台所で夏野菜の揚げ浸しを仕込んでいたら、玄関前で車が止まる音がした。日光くんがタクシーで帰ってきたのだ。おれは小走りで玄関に向かい、鍵をあけた。
日光くんはとてもくたびれたようすだった。タクシーを門の前に待たせているらしく、「これからまた戻ります」と開口一番言ったけど、それでも少しだけ話ができた。日常生活に飢えているのか「今日はどうでしたか」とか漠然と訊いてきたが、山鳥毛の引っ越しのことはさすがに言う気になれない。「ひさしぶりにそば食った」とだけ話すと、その蕎麦が山鳥毛の引っ越し蕎麦だと知るよしもない日光くんは、今にも死相が出そうな顔でかろうじて頷いて、「貴方は昔から蕎麦がお好きでしたよね」と言った。
もうちょっと話したかったが、日光くんはその次の瞬間、結構な量の洗濯物を鞄から引っ張り出しはじめ、恐縮しながらおれに託すと、クリーニングから戻ってきた着替えを回収して霞ヶ関に戻っていったので、それ以上は話せなかった。山鳥毛が退職すると決まる前だって大概な職場だったが、決まってからは余計にものすごいことになって、その余波はまだ続いている。抜けた穴が大きすぎて、こうでもしないと埋められないのだ。
こうして日光くんは、いちばん尊敬していた上司を失った――そして、それからしばらくしたある日急に、蕎麦を打ち始めたわけである。
これがもし、博多ラーメンを極めたいといって自己流濃厚豚骨スープを毎日仕込むようになった、とかなら、おれも問答無用で止めている。ラーメンはうまいが、うちの台所で豚骨が常に煮えてるのは御免被りたいし、毎日食べたらメタボまっしぐらだ。
だが、蕎麦――蕎麦は身体に良いし、うまい。あれでけっこう腹持ちも良い。言うことない。
日の出と共に日光くんが石臼で蕎麦粉を挽きはじめるので、その音でおれも起き出す。日光くんが食堂で蕎麦をこねたりのばしたりしているうちに、おれは台所でだしをとってめんつゆを作り、打ち上がった蕎麦をゆでてしめたら一緒にすする。
流石に夜昼のどちらかはおれもふつうにご飯を食べるけど、小腹が減ったらお湯をわかして、日光くんが最初に大量に買ったのに今はあんま使ってない蕎麦粉で蕎麦がき――山形にいたちいさいころは「かいもち」ないし「かいもづ」って呼んでた気がする――を練り、水筒に入れてきた蕎麦湯を飲む。
夜、ふたりで蕎麦をたぐりながら晩酌しているときに日光くんがちょっとだけ打ち明けてくれたところによれば、山鳥毛が上司だったころは、「我が翼の思うようにしてくれればいい」と、大変な仕事もどんどん任せてもらえていたらしい。だからあんなに熱心に残業をしまくってたわけだ。新しい上司はというと、前任者の左腕だった日光くんのことをまだまったく信頼してなくて、あまり大事な仕事は振ってくれないという。だからこそこのように残業しなくてすんでしまっている、ということらしい。
これに関して日光くん本人が具体的にどういう心境なのかは何も話してくれなかった。けれども、それはそれとしておれのほうはというと、今の生活をかなり気に入っていた。
新しい上司が来てからの日光くんは、前に比べてずっと人間らしい時間帯に帰ってくるようになった。日光くんが夜に一生懸命蕎麦を打っている音をききながら、家事とか小手紐の取り替えとかをのんびりやるのはなんか、かなり悪くない。ふたりで住みはじめてからはじめて、好きで一緒になった連れ合いといっしょに住んでいるのだ、とおれはしみじみ実感できるようになったのだ。
前は夜があんまりにも暇で、ごっちんのとこに遊びに行くのにすら飽き、とてつもなく暇な大学生バイト並みのシフトで近所の居酒屋のキッチンに入ったりもしてたけど、ここのところは休んでいる。日光くんの蕎麦が打てたらすぐにゆでて食わないと、勿体ないからだ。
「……ま、そういうかんじで、おれも日光くんもどんどん健康になりつつある、てわけ」
おやつを食べ終えたのち、都心に住む長船一同にもってく野菜をつんだ軽トラで、おれは助手席のごっちんにことの次第をかいつまんで話した。ごっちんは夕暮れの街を眺めながらフンフンと適当に相槌を打ち、「飽きない?」とずばっと訊いてきた。
「べつに……主食だし」ごはんに飽きるか、みたいな話になってくる。「もとから好きだから、毎日食っても飽きるとかは――」
「惚気? ごちそうさま」
なんの話だと思ってるんだ。おれはごっちんをちょっとどつきたくなったが、信号が青になったのでそうもいかなかった。
さきほど、おやつにそばなんて、みたいな顔をしていたごっちんは、実際に食べ始めると口もきかずに蕎麦を啜り、おれが出してあげただしののこりもぺろりとぜんぶ平らげた。蕎麦湯も二杯おかわりした。それから、家のひとたちの分の蕎麦を受け取り、日光くんの講釈――茹でるときはまず丁寧に蕎麦をほぐしてから、ぐらぐら沸いている湯にそっといれろ、とか――を、めずらしくひとことも文句も言わずに聞いていた。
「でもたしかに、ほんとにおいしかったよ」ごっちんはきっぱり言った。「もらったぶん、どうしようかな――あったかいそばにするって手もあるか。夜だし」
「え、やめときなよ……」
ごっちんは昼に冷たいのを食べたからいいけど、残暑の厳しいこの季節に温蕎麦は微妙だ。それに、日光くんの蕎麦は冷水でがっつりしめて、冷たいままですすりこむのが一番美味しい。長船のみんなに食べてもらう最初なら、そのほうがいい。
「冷たいそばにして、ごっちんはつけ汁あったかいのにしたら。鴨とかいれて。みんなは、とろろかけて、とり天とかつけて――」
「最高。ね、ボクがガソリン入れるから、スーパー寄っていい?」
「もち」
食料を買い込んでガソリンを入れたあと、ごっちんはおれの方を見て、「おつう、そば屋さんやれば? 日光くんそそのかして退職させてさ。ボク通うよ」と急に言った。
「なんで」
お蕎麦もだしもほんとにおいしかったから、と、ごっちんは邪気のない調子で言った。
某務省やめてそば屋ひらいたら通うってごっちんがいってた、という話を帰宅後に日光くんにしたのは、まさか、本気にするなどとはゆめにも思っていなかったからだ。
実際、日光くんは、定年退職の日まできっちり仕事をする以外の選択肢がこの世にあるとは認識してなさそうに見えた。だから、こんないそがしい仕事さっさとやめたら、とか日頃からさんざん言いながらも、おれはこれまで日光くんが実際にやめてくれる可能性はあんまりしっかりとは考えていなかった。まあ、おれが一度も勤め人をやるでもなく、剣道道具屋の店長のじいさまばあさまと意気投合して店を譲ってもらい、それでもひまなので区民農園の運営を手伝ったり居酒屋でもバイトをしたり、とかいう世にも呑気な人生を送ってきたのも、日光くんのものすごい安定感にあまえていた面はあるのだ。
だから、蕎麦打ちグッズの通販ページを見ていた日光くんが顔を上げて、「店――それもいいかもしれませんね」と言ったとき、おれはものすごくびっくりして、「マジで?」などとしか言えなかった。
その夜、セックスしたあと先に寝てしまった日光くんのよこで、おれはなんとなく「それもいいかもしれませんね」と言った時の日光くんの顔を思い出して、どうしたもんかな、と思った。
別に日光くんが仕事をやめてもどうにかなるはずだ。この家は持ち家で、ローンも完済してある。敷地は結構広いけど、区部でものどかなあたりの中古物件だからそんなに高くはなかった。則宗が頭金を出してくれたし、なにより日光くんが(博多くんには「前倒しで返すなんてアホのすることたい!!」と叱られながらも)さっさと繰り上げ返済してくれたのだ。強いて言えば、年金、介護保険あたりはけっこう大変か――。
頭の中で計算するのが面倒になったので、おれは一度起きだして布団を出た。虫の声をききながら、電気を付けずに廊下を歩いていく。一枚羽織るほどではないけれど、前より夜はずっと涼しくなってきた。書斎のパソコンを立ち上げて、家計管理のソフトをひらく。
ついついいつもは家計簿ゾーンの「支出」ばっかり見てしまうが、冷静に資産のほうに目をやると、日光くんにせっつかれてこつこつやっていた積み立て投資信託はけっこうすごい額になっている。国税局とかのサイトを見ながら紙で計算しても、やっぱり、日光くんがやめるだけならなんとかなる、というのが結論だった。親の遺産はあてにしないとしても、家の修繕維持はおれができるし、貯金もある。仮に蕎麦屋が赤字ギリギリでも、おれが仕事をぼちぼち続けて、日光くんの定期預金に手を付けないでおけば、そこそこ長生きできるだろう。もちろん、これからやっべえインフレがおきて日本円と米ドルが紙切れになれば別だが、そんな情勢になったら日光くんが官僚として勤めている意味もたぶんないし――。
ぐるぐる考えていたらますます目が冴えてきたけれど、明日も朝から畑に行かないといけない。おれはパソコンを落として伸びをし、寝室へと戻った。
日光くんは静かに寝ていたが、いやな夢でも見ているのか、眉間にきつく皺を寄せていた。ちいさい子が見たらこわがりそうなこわい顔――おれは布団をめくって日光くんの隣に座り、ぎゅっと寄せられた眉間を触った。それから、枕元の暗い窓にうつる自分の顔を覗いて、日光くんなみに眉間にしわが寄っているのをたしかめ、微妙な気分にならずにいられなかった。
そう、問題はこれ――なんといっても蕎麦屋は客商売だが、おれたちはまったく、愛想がいいほうではない。おれは接客経験自体はあるけれど、居酒屋バイトでキッチンから出て行くのはせいぜい月に二回、若いホールスタッフにしつこくからんでくるやばい客をつまみだすときくらいに限られる。日光くんはまあ、なんつーか、見ての通りである。誰か接客が上手な人をやとうにしても、そうなると当然、お金がかかる。ぎりぎりどころじゃない大赤字になったらさすがにまわらない。
それでも絶対に蕎麦屋をやりたい、蕎麦に人生を賭けたいんです、と日光くんがいうなら全力で応援したいが、後家兼光が言うならやってみてもいいかもしれない、くらいとなると、応援していいのかおれはわからなかった。なんせ、日光くんは突然蕎麦打ちに恋しちゃったというよりは、山鳥毛が辞めたせいで人生の指針を失ってこうなってしまっているにすぎない。ここ最近、まともに笑ったところを見たことがない。
日光くんの真面目な性質からして、ひとたび仕事を辞めて蕎麦屋の道に行ってしまったらたぶん、蕎麦屋が成功するまでなんとしてでもやめたがらないだろう。そうなったらおれもうまく止められるかわからない。
おれの気楽な居酒屋バイトと違って、いっぺん辞めたらお役所には戻れない。おれはあの職場環境は気に食わないけれど、日光くんがこれまであそこで生きてこられたのもまた事実だ。もしかしたら今後、某務省のしごとで山鳥毛以外のやりがいが見つかるかもしれないんだから、まずはそっちをちゃんと検討した方がいいんじゃないか?
というわけでおれは日光くんを起こさないように布団に潜り込み、翌朝以降も、お店を開く件については触れずにすごした――でも、一応、何かの時のために食品衛生責任者と甲種防火管理講習はとった。飲食店の経営、調べてみたらけっこう面白そ、とおれも思ってしまったのだ。日光くんはまだ落ち込んでいて、たまにお酒を飲んだときに喋ることも「頭は岡山でどうなさるのでしょう」一点張りだし、しらふのときは蕎麦打ちに集中してるわけで、こっそり講習会に行くくらいは簡単にできた。
すべてが落ち着いてから山鳥毛が語ったところによれば、山鳥毛はちゃんと日光くんに出馬計画についても相談していたらしいし、日光くんも口では「ご武運をお祈りいたします」などと言っていたらしい。
ただ、日光くん本人は、表面上取り繕っただけでほとんど意識が飛んでいたようで、山鳥毛の今後については全く一言も聞いた覚えがない、という。「言わないということは訊かれたくないのでは」と悩んでいる日光くんの深刻な空気はおれにも伝染したので、山鳥毛が岡山でどうしているかはおれと日光くんには完全な謎だった――十月が来るまでは。
秋の統一地方選、岡山県某市の市長選の模様は――見知った顔が食堂のテレビの中で目を細め、穏やかな声で公約を語り出す。おれは思わず振り返って日光くんを見た。例によって食堂のテーブルを占拠して蕎麦を打っていた日光くんは、大事な蕎麦包丁を取り落とし、目を見開いてテレビを見つめていた。日光くんの憧れの上司だったあの人は、真剣なまなざしで、わが町でスモールビジネスを栄えさせるための計画を語っている。そう、山鳥毛はやっぱり山鳥毛だったのだ。
ニュースが終わった瞬間から、日光くんは、急に20くらい若返ったのか、と疑いたくなるくらい猛烈に元気になって、山鳥毛の選挙がうまくいくかどうか猛烈に心配しだした。おれが「いや、あのひとならいけるって」と止めなければたぶん、山鳥毛に投票する有権者を二人増やすため、岡山に住民票を移していただろう。
むろん、そうするまでもなく山鳥毛は現職をあっさり下した(仮におれらが引っ越していたとしても、住民票を写してから三ヶ月は投票できなかったらしいということもあとでわかった)。さっそく市議会と是々非々でどうにか頑張ろうとしている様子だ。
こうして山鳥毛の退職後の計画がはっきりして以降、日光くんが蕎麦を打つ回数は、二日に一、二回くらいに減った。ごっちんにそう言ったら、それでも一般人よりは蕎麦屋に近いよ、と言われたがまあ、前はきっちり一日に二回打っていたんだからものすごい変化だ。
早期退職して蕎麦屋を開くという計画はどうするの、と一応訊いたら、日光くんは、もう少し霞ヶ関から山鳥毛を応援したくなってしまったのでいったん保留にさせてほしい、と返して謝ってきた。
もちろん、日光くんがいいならそれで全然おれはいい――でも、山鳥毛は、政治は地方から、とかなんとかえらく意気込んでいて、市長選を踏み台に全国にうって出そうな気配はぜんぜん言ってなかったけど、大丈夫なんだろうか?
「レクであのひとに会う、とかいうとだいぶ先になりそうっつーか……そんなことあるかもわかんなそうだけど、いいの?」
山鳥毛が穏やかに語っていたプランは、これならおれらの住んでる区で立候補してほしかった、とか一瞬よぎるくらいには具体的かつ着実そうではあったが、そのかわり、かなり長期的な計画に見えた。でも、日光くんは微笑んで、「うちの省は地方自治体と関係が深いので、国会議員にならずともかかわる機会はありそうです」といった。
「そ? ならよかった」
「ですが――その、更にご心配をお掛けするかもしれないのですが」
日光くんは石臼を動かす手を止めて真剣な顔で座り直し、「頭がいなくなった以上、私はいずれ出世街道からは外れますので、そこはどうかご承知おきください」と言った。
そうなんだーーというか、もうすっかり外れてしまってそれがショックなのかと思っていた。日光くんが身体壊さなきゃそれでいいよ、と返事をすると日光くんは頷いて、「庇護し引き立ててくれる上長がいなくなったわけですから――新しい上司は悪い人ではありませんが、頭と比べるらくもありませんし、私に期待もかけていないようです」と静かにおれの目を見て言った。
「まあ、どこかしらで民間に出る機会が回ってくる可能性はまだ残ってはいますが――ですが、そんなことをするくらいなら、あなたと二人で蕎麦屋をやりたいです」
色々言いたいことはあったが、おれはどうしてかこの発言がものすごくうれしかったので、お疲れ様、とか、山鳥毛の参謀はやんなくていいの、とかいうのはすべてすっ飛ばして、「店、どこに出したい?」と訊いていた。
「赤坂のビルの一階を改修したらどうか、と御前は言っていました」
「……なに、もう相談してたの」
当然です、と日光くんは妙に誇らしそうに胸を張って言った。おれの知らない間に則宗に何度か蕎麦をわけてあげていたらしい。
「あるいは――いっそ、あなたが小さいころ住んでいたあたり、というのもいいかもしれません」
今使っている蕎麦は山形産ですから、と日光くんは言った。
「……いいね。あっちは、お米もお酒もおいしいよ」
蕎麦はもちろんだけど、どうせならほかのものも飲んだり食べたりできるお店がいい、とおれは勝手に考えていた。夜は居酒屋みたいにして、というと日光くんは力のこもった調子で、実は同じことを考えていました、と返してきた。
「あと――ご存じかもしれませんが、あのあたりは最近は良いワインも盛んに作っているでしょう。実は昔から葡萄酒の醸造に興味がありまして」
けっこう多趣味じゃないか。老後はおれの方が無趣味でやばいとかあるかも、と冗談でいうと日光くんはおかしそうに笑った。
それからふと日光くんはとても真剣な顔で身を乗り出して、「その、折り入ってひとつご相談があるのですが」と言った。何の話だろう。大昔、「一緒に暮らしませんか」と言ってきたときとか並みの前置きだけど――おれは若干身構えながら、なに、と言った。
「山形で思い出したのですが、昔そちらのご実家にご挨拶に行ったときにうこぎ蕎麦というものを食べましたよね。あれを一度作ってみたいので、今度垣根のうこぎを収穫するときは少し分けてくださいませんか」
なんだ、そんなことか。おれは思わずちょっと笑ってしまった。いくらおれがうこぎを大事そうに育てているように見えるにしても、そんなに気負わずとも――でもまあ、いつも真面目なのは日光くんの良いところだ。
「いいよべつに。好きにちぎっても――」
今とってこようか、と立ち上がって上着を羽織ると、日光くんもついてきた。
暗いなかでおれたちは懐中電灯を頼りにうこぎを千切り、台所に戻ってすりつぶし、うこぎ蕎麦らしきものを試作した。もしかしたら、明日の朝にあかるいところで見たら、生け垣の絶望的に重要な場所を絶望的にちぎっていたと判明する可能性もないことはないが、そんなことはいったんいい。大事なのは、そばにいるひとが、いっしょの方向を見ていっしょになにかをやってくれる、ということだ――できれば、今後に対する希望をいっしょに持ちながら。
最近は上司も多少は日光くんの扱いに慣れてきたのか、曜日次第で日光くんはそれなりにしっかりめに残業させられるようになってきた。
こればっかりはしかたないので、おれはバイトの夜シフトを多少元に戻して居酒屋料理全般の修行をしつつ、おれらよりちょっと年上くらいの店長が「飲食の経営でここがたいへん」とこぼすのをしっかり聞いている。
日光くんが早く帰れる日は、蕎麦を打つ音を聞きながら台所でめんつゆの味見をして、一通り作業が終わったら風呂に入ってあれこれ話す。気の早い日光くんは、外国からの観光客が来ても大丈夫なように、通勤電車で英語をやり直しているらしい。
いろいろとほかにもやることはありそうだが、おれは気長にかまえている。なんせ、おれたちの計画はまだまだ動き出したばかりなのだ。
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