幸せになりましょう、一緒に。


遠くから水音が聞こえて来て、目が覚めた。
徹郎が薄眼を開けると、寝室はしんと静まり返っており、広いキングサイズのベッドに譲介が戻って来た気配はなかった。
譲介のヤツ、まだ臍を曲げてんのか。
人生の前半戦で世間の冷たい風に吹かれ過ぎたせいか、何だかんだで、怒りを翌朝に持ち越さない質の徹郎とは違い、和久井譲介という男は静かに怒りを持続させるタイプだった。
今回の喧嘩は、譲介が気に入っていた靴下を連勤で不在の間に勝手に捨ててしまったのがどうやら原因らしい。
たかが靴下、されど靴下。
ワインレッドの色味は妙に派手だが、そうは言っても無地のソックスでブランドロゴの刺繍もない。捨ててしまうのが惜しいようなブランド物にも見えなかった上に、折り返したら指の入る丸い空洞が出来ていた。
後生大事にクローゼットの奥に仕舞っておくならともかく、その辺に置いておくのが悪い。
そう言ったら、「捨てたところで支障はないものだとしても、なるべく僕に聞いてください。」と余計にこじれてしまい、口を噤んだ譲介は、それきりまともに話をしようとしなくなった。
結婚記念日に買ったワイングラスを床に落として割ったところで、怪我はないですかとこっちの指先の怪我を心配するほど甘い男だ。
しばらく放っておいたところでご機嫌斜めくらいで済むと思っていたが、どうやら当ては外れたようだ。
あのままベッドに戻ってこなかったところを見ると、相当怒っている。
朝、起こさずにシャワーを浴びているのは、先に出掛けるというサインか、あるいは本当に急ぎの仕事が入っているかだ。
入った仕事のスケジュールと休暇はクラウドサービスのカレンダーで共有することにしているので、後で見ておけばいいという話で、機嫌を取るならまずこのタイミングだろうとベッドから起きることにした。
布団から身体を出すと肌寒いので適当にその辺にあったシャツを羽織る。


どこから見つけて来たのか、無駄に洒落てるコーヒーケトル風の電気ポットを切り忘れたまま寝てしまったらしい。
食卓には、積み上げた本の上にタブレットがそのまま置いてある。直近で扱う症例を確認しながら、そのまま寝落ちしてしまったのだろう、ソファ横の床には論文をプリントアウトした紙束が、普段のようにクリップで留められるでもなく広がっている。

人には体調に気を使えとくどくど言うくせに。ったく。

医者の不養生というのが身に覚えがあり過ぎて、一度は釘を差す必要があるな、と思いながら、散らばった紙束は拾って重ねてテーブルに置いた。
そのままキッチンに移動して、買って来たばかりのパンの袋を開けて、二枚をトースターに突っ込む。
タイマーは二分。かつて暮らしていた頃の家電を使っているような気分でパンを焼いたら黒焦げの代物が出て来ることになる。
吊るしてあるフライパンを平たいガス台ならぬ電磁調理器の上に置き、卵をふたつ割り入れて蓋をする。ベーコンを焼いた脂で焼くのがいいのは分かっているが、腹がもたれるような気がしたので止めて置いた。
加熱のボタンを押して、フライパンの熱で卵が焼ける音を聴きながら皿を並べていると、普段朝飯を作っている譲介がエプロンをしていたことを思い出した。夕飯に煮込みを作るならともかく、まあこのくらいなら借りるまでもないな。
電気ケトルの水の入れ替えは後でやりゃいいか。
コーヒーを淹れるのは後回しにして冷蔵庫から牛乳を取り出していると、廊下を移動する譲介の足音が聞こえて来た。
シャワーを終えた譲介が、髪を乾かした後の首元のタオルをそのままにキッチンに来た。
「……おはようございます。」という平板な挨拶の声。
オレがまだ寝ているだろうと踏んでいたのか、不意を突かれたような顔になった。
「よおダーリン。ソファの寝心地はどうだった?」とからかうと、譲介は「快適とはいきませんが、それなりです。」と返事をする。
膨れてはいないが、まだ昨日の御立腹を引きずっているようだ。
「メシ、食うだろ?」と言うと譲介の表情がぴくりと動いて、猫じゃらしを持って猫の相手をしているような気分になってくる。
可愛い年下の男は、「僕にも牛乳ください。」と棚からコップを出して寄って来た。
差し出したコップを流しの横に置くので、注いでやると、譲介はその間に、昨日の夜の分です、と言って頬にキスをした。
「……まだ怒ってますよ。」というので、そうかそうか、と相槌を打つ。
「ほんとですからね。」と言う譲介の声も全く本気ではないように聞こえる。
徹郎は、笑いながら、調味料を置いた並びに手を伸ばして、胡椒を取った。
胡椒だけじゃなくて、塩もお願いします、と隣から口を出してくる男も、どうやら笑っているようだった。

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