雪の果てにて
遮光カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。ふと浮上した意識は未だに眠りの縁に引っ掛かっていて、ともすれば二度寝という心地良い波に攫われてしまいそうだった。ひやりと頬に触れる空気が冷たい。側にある温もりが心地良くて、そのままとろとろと目を瞑ってしまう。もぞりと身じろぎすると、ぎゅうと抱き締められて引き寄せられた。顔を押し付けることになってしまったシャツ越しに感じる体温がまたぬくくて、そのまま意識が落ちていきそうになる瞬間、はたと僕は気付いてしまった。
「!?」
がばりと起き上がる。ずるずる体の横を滑り落ちていく手は未だにぽかぽかと温かくてまるで子供みたいだ――だなんて思っている場合ではない。枕元に転がる携帯端末を掴んでディスプレイを表示させる。表示されている時刻は十時半。寝坊どころの騒ぎではない。僕の仕事は完全に在宅であり時間の融通も利くが、こいつはそうもいかない。飲食店、接客業。隣ですやすやと寝こけている蓮の肩に手を伸ばして揺さぶろうとした瞬間に、ふと気付いてもう一度手元の携帯端末に視線を落とした。
時刻は変わらず十時半だ。いや、今一分進んで十時三十一分。表示されている日付は、二月二日。
「……あぁ……」
そういえばそうだった。ぐしゃりと髪を掻き上げて、僕は大きく溜息を吐いた。アラームを設定せずに寝たのも、こんな時間なのも、全部この日のためだ。この日のせい、と言ってもいい。いつもならこんなふうに僕が動いてしまえば、蓮はあっという間に目を覚ます。それなのに、今日の蓮は未だに夢の中から出てくる気配はない。
去年の同じ日、蓮は酷く体調を崩して職場で動けなくなった。それを僕が迎えに行ったことを同じ店舗のスタッフはきっちりと覚えていたらしい。それで無理矢理休みにさせられてしまった、と呟いた時の蓮の顔はそりゃあ酷いものだった。意地っ張りな子供みたいな、でもその意地をどうやっても引っ込められないような、途方に暮れた顔。同棲してそれなりに経つが、こんな表情もするんだなと思う程には初めて見たもので。
……まぁ、僕もそっと二月二日に有休を申請しておいたことは蓮には言っていない。どうせ僕のその日の仕事は僕の裁量次第だ。別の日にいつもより進めてしまえば困ることはない。それに、余り散らかしている有休を消化することを職場の上司にたいそう喜ばれてしまったので、なんとも言えない気持ちにはなっている。蓮と同じくして僕もそれなりにワーカホリックだった。お互いの有休は今でもただただ垂れ流されているばかりだ。
ぼんやりと時計を見つめる。十時四十五分。すうすうと規則的な呼吸で眠る蓮の頬に、そっと指先を下ろした。温かい。むに、と指先で頬を押してみるも、目覚める気配はなかった。
めちゃくちゃに体調を崩す可能性があるのなら、仕事は休んでおくべきだ。そのための人員を確保しているのだから尚更。それに蓮は働きすぎだと言われているので――完全に自分の事を棚に上げているが、そんなことはどうだっていい――たまにはゆっくり休めと店のスタッフ全員からの押しでこうしてこいつはここで惰眠を貪っている。実際のところ、惰眠かどうかはわからないが。
お腹もあまり空いていない。元々朝はあまりそんな量を食べないものだから、このまま抜いてしまっても僕としては何の影響もない。蓮、と小さく声を掛けてみるも、やはり先程と同じで夢の国の住人のままだった。
もぞりとまだ温かな毛布を引っ張り上げて、僕は再びベッドに横になった。あたたかい。蓮の手がぴくりと動いたので流石に起きたかと思い顔を覗き込んでみるも、目蓋はぴたりと閉じていて長い睫が微かに頬へ影を落としていた。
こいつは――雨宮蓮は、未だにあの二月二日に囚われている。自分のせいであることは重々承知しているが、それは本当に僕なのだろうか、と思わずにはいられない。あの時の僕は間違いなく丸喜の手配した病院で眠っていた筈なのだ。まるで白昼夢のような中で、あいつとの対話を行っていたような気がする。所々の記憶がおぼろげなのはあの歪な世界のせいなのだろう。『僕が選ばなければならなかった』ところだけは妙に意識がはっきりしていることが未だに気持ち悪い。だからこそ、あの蓮が無意識に求めたのであろう『僕』が、僕であって僕ではない極めて歪なものとしか思えないのだ。
僕ではない、とは、言いきれない。けれど、僕である、とは……あまり、認めたくはない。
蓮がどう思っていたかなんて確認する気はないし、これからもするつもりはない。あの頃の話は、実際今でもあまり蓮とすることはない。今ここに僕と蓮が生きている、それだけでいい。今あの当時の話題に触れたところで、お互いの過去は変えられないし変わらないのだから。
……そういえば、いつだったか蓮がこうして起きなくなった姿を夢に垣間見た事がある。妙に生々しくて寒々しくて、人の気配がない夢だった。あいつだけが何一つ変わらぬ姿で、あの狭苦しい屋根裏部屋の固いベッドとも言えない寝床でただただ眠っている、そんな光景。それはもう眠りから覚めたくないと現実を拒む姿にも見えた。それを見て、僕はようやくこいつもただの人間だったなと意識したくらいには、弱々しい姿だった。
お前が囚われているものが僕なのであれば、お前の思う僕は本当に僕なのだろうか。すやすやと眠る蓮の表情はいつもより幼く穏やかだ。囚われているならば、今ここにいるこの僕に囚われていろ。この馬鹿。
本物なのかどうなのかわからない、記憶の中だけにいる過去の僕なんか見るな。
「……この寝坊助。そろそろ起きろ、蓮」
僕はしっかりと腹から声を出して、蓮の鼻をぎゅっとつまんだ。んぐ、と眉を寄せた蓮がぼんやり目蓋を持ち上げる。のろのろと瞬きを繰り返す蓮に、僕はお腹が空いた、と声を掛けた。
「ん……んう……なんじ……」
「十一時」
「……お昼だ……」
「そうだよ」
「…………お昼…」
「そう」
「あけち…?」
「何」
「……うん…」
「あれだけ寝てまだ寝ぼけてる?」
「……そうかも」
「寝すぎて脳みそ溶けたか?」
「ひどーい……」
舌ったらずにも聞こえるとろとろした口調でぽやぽや喋る蓮はまるで幼子のようにも見える。実際のところ、まだ眠いのかもしれない。ただ、去年のような不調を感じさせる気配はなかった。内心で少しだけほっとする。いつまで経っても過去の俺に引きずられるな、馬鹿が。そんな言葉を飲み込んで、僕はぴしりと蓮の額にデコピンをひとつ。あいた、と痛そうな声が出る。そりゃあそうだ、痛くなるくらいには力は込めてある。
「休みに寝倒すのもいいけど、僕はお腹が空いた」
「んんー…………わかった」
僕の体に回っていた蓮の腕が、一度ぎゅっと僕を抱き寄せてからするりと離れていく。そのぬくもりを少しだけ追いかけてしまいそうになって、僕もこいつに絆されたな、だなんて思ってみる。今更だ。もうずっと絆され続けている。わかっていて、それを直視できないでいるだけで。
「なにがたべたい?」
「なんでも。お昼近いから、ブランチにして」
「わかった」
ぬるま湯の夢はベッドの上の毛布に置き去りにして、僕たちは揃ってフローリングへと足を下ろす。ひんやりと冷たい。やはり二月は酷く寒い。
「蓮」
「なに?」
「……、お昼、オムレツにして」
「りょーかい」
寝癖をぴんと跳ねさせたまま、蓮はへにゃりと笑う。リビングの空調を動かして、僕たちはのんびりと朝の身支度をし始める。
僕はカーテン越しの窓の外をちらりと見て、今日は雪が降らないといいな、と思った。
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