ラビット・ホール

 ほどけたスニーカーの靴紐が泥で汚れている。
 生家の玄関に腰を下ろし、乱暴にスニーカーへ足を突っ込んだところで、ドンシクはそれに気がついた。
(まあ、昨日は俺たち二人ともむちゃくちゃだったしなあ)
 汚れがついたその瞬間のことを思い出し、笑って乾いた泥をこそげ落とす。
 土間にぱらぱら土が散っていく。
 細かな土埃が光を受けて舞い、ドンシクは一瞬見とれた。
(きれいはきたない。きたないはきれい)
 ふと浮かんだ言葉が、また違う記憶を呼び覚ます。
 そう、あれはマクベスの舞台だ。マニャンガーデンの客が持ってきたチケット。隣にはユヨン。公営ホールの意外と良い音響。前列の客の眠気に垂れた頭。
 光景が閃いては消えていく。
 ときおり脳裏をよぎる過去の記憶は、ドンシクを以前ほど苛まなくなった。痛みは一生消えないが、必要以上に自ら心を抉らなくなった。
 ふう。
 脳内の台詞と光景を、顔にまとわりつく埃とともに一息で吹き飛ばす。
 浮遊する塵により、差しこむ光がはっきりとした輪郭を描いた。
 ドンシクの生家は、玄関の扉の一部がガラス張りになっており、外光が淡く入ってくるのだった。午前十時だというのに、初夏の太陽光は既にほどけた靴紐をじりじりと焦がしていた。
 イアン・ノットのやり方で、ドンシクは靴紐を結び直す。
(そう言えば、これは母さんに教えてもらったんだったな)
 キム・ヨンヒは野外でのレジャーが好きで、そのせいかあらゆる紐の結び方を知っていた。
 巻き結びに、引き解け結び。トラックロープの括り付け方から、プレゼントに美しいリボンをかける方法まで。母と一緒に過ごすうち、ドンシクもユヨンも自然とそれを身に着けた。
 息子のように可愛がっていたあの男に教えたものもあったろう。商品を傷つけないために、洗濯ロープを止めるために、古いチラシをまとめるために。
 そして、彼が被害者の手と足を包んだ時の、あの。
 しゅっと小気味いい音を立てて、ドンシクの手で靴紐が結ばれた。
 ドンシクは小さく首を振る。考えても正解など無いことだ。思考に忍び入ってくるどうしようもない考察など、とっとと追い出してしまうに限る。
 手の汚れを適当に払って、気持ちを切り替え、さて出かけるか、と立ち上がろうとした時、不意に手元に影が落ちた。
 黒々と手に染みる輪郭から顔を上げれば、ガラスの向こう、扉の外に人が立っていた。中肉中背の人影が見える。
(誰だ、こんな時間から?)
 影がこちらに向かい手を伸ばした。
 ガッチャン!
 扉が引かれ、鍵に阻まれ、玄関口に戸惑った沈黙が落ちる。……かちゃり。もう一度、今度は確かめるようにノブが引かれたものの、また鍵によって妨げられた。
 そんな場合ではないとわかってはいたが、ドンシクは思わず声には出さずに笑ってしまった。
 どうやら不法侵入者(未遂)はずいぶんと無計画な人物らしい。まさかドンシクが家に鍵などかけないと信じ切っていたのだろうか。
 口うるさくお小言を言うパートナーのおかげで、最近のイ・ドンシクの家々は施錠が完璧なのだった。
「あれ……おかしいな……」
 一呼吸置いて、艶のあるベルベッドめいた声がドンシクに届いた。
 そこにいるはずのない人物の声。
「──ハン・ジュウォン?」
「イ・ドンシクさん」
 シルエットが返事をする。
「良かった。鍵がかかっているものだから、メッセージが届いていないのかと思いました」
 十時には着く予定だと連絡していましたよね? 早すぎましたか?
 ジュウォンはめずらしくこちらをうかがう様子を見せた。
 逆光になった彼の影は濃く、ガラスを通し、ドンシクの顔にまで落ちてきている。見えない表情を見ようとしてドンシクは言った。
「……あなた、いったいどこから来たの……?」
 声が少し上擦った。
 ハン・ジュウォンは、今日この時、扉の外にはいない。いるはずがない。
 ドンシクはそれを知っていた。
「ああ、やっぱり伝わっていませんでしたか? 朝からすみません。その、代休が急に取れたので、今日のバーベキューの準備を手伝えたらと思いまして。参加人数がどんどん膨らんでいったので大変ではないかと。イ・ユヨンさんに聞いてみたら、自分が兄に連絡しておくし、問題は無いとのことだったのですが……ドンシクさん、また携帯電話、不携帯だったんですか?」
 ドンシクの動揺に気がついていないのか、語尾が面白そうに膨らんだ。
 確かにドンシクのスマートフォンは、手元にある方がめずらしい。ジュウォンはいつもわざと時代遅れの言い方でそれをからかう。不携帯の携帯電話。妹もよく言っていた。オッパの携帯電話はいつだって不携帯、まったく連絡が取れやしない。
 そう、ドンシクの双子の妹、ドンシクの、
「ユヨナ、が?」
 イ・ユヨン。ユヨナ。ドンシクのユヨンのことを、彼は今、口にしたのか?
「はい。僕のマンションの下で待ち合わせをして、ソウルから一緒に来たんです。ミンジョンさんも、二人でハスクまで迎えに行きました。ユヨンさんの車に乗っていますよ。お二人は先にお肉を調達してくると言って、マニャン精肉店へ行かれました。あ、ユ・ジェイさんはお店の手伝いをしてから、時間通りに来られるそうです」
 ユヨンさんの運転、それほどスピードを出していないのにスムーズで、すぐに車間距離が開いてしまうんです。弁護スタイルそのものですよね。いつのまにか、ユヨンさんのペースについていくのがやっとになってしまう。僕も撒かれかけました……昔からですか?
 楽しそうなジュウォンの声がくっきりと土間に響く。
 曇りガラスで解像度が下がった輪郭が、膨らんだトートバックを肩にかけ直した。
 お望みの林檎は僕が持ってきましたよ、とジュウォンが弾むように言った。いったいそれは誰の望みなのか。
「うん……、そうなんだ。ユヨンは昔から俺より運転が上手くて速い」
 放たれた言葉が体中をぐるぐる回る。巡る。
 ソウルに住んでいるハン・ジュウォン。ハン・ジュウォンと知り合いのイ・ユヨン。イ・ユヨンと仲の良いカン・ミンジョン。一緒にマニャンまで車を走らせて、皆そろってやってきた。
 あり得ない情景過ぎて眩暈がする。
「あの、ドンシクさん? どうかしましたか……?」
 ジュウォンが戸惑っている。ドアに近づきこちらを注意深く探っている。
 当たり前だ。ドンシクがぐずぐずとドアを開けないせいだ。バーベキューの手伝いを申し出るほどの関係「らしい」のに、ドンシクは彼を家に入れあぐねている。
 ジュウォンの口振りだと、そのバーベキューにはマニャンの人々も来るのだろう。ジェイも顔を出すと言っていたっけ。店の「手伝い」、ということはマニャン精肉店を経営しているのはジェイではない。別の誰かだ。ハン・ジョンイムはまだ店を続けているのか。だとしたらジェイはマニャンの地から離れているということか?
 疑問が膨らんでは弾ける。
 ドンシクに対して、少なくとも敵意を抱いていないハン・ジュウォンが、扉の外で首を傾けている。
 彼もおそらくドンシクの知っているジュウォンでは無いのだ。
 どこかのドンシクと知り合いの、どこかのジュウォン。
 上半身がぶるりと震える。
 興奮か恐怖か、己の肉体のコントロールを失い、ドンシクは手で口を押えた。けれど。
「はは。いや、実はね」
 声が勝手に零れでた。自分で驚く間もなく、後から後からあふれてくる。
「俺、いま裸なの。真っ裸なんです。皆が来る前にシャワーを浴びようとしたところで、玄関が騒がしくなったから急いで出てきちゃった。さすがにこれでドアを開けられなくって。待たせてごめんね」
「えっ、あ、いえ、待っているので、着替えてきてください!」
「それがねえ、慌ててはいたものの、一応服は引っ掴んで持ってきてるんです。もうここで着ちゃおうかな……ねえ、俺が服を着ているあいだ、よかったら皆の近況でも教えてくれませんか。ミンジョンはどうでしたか。ユヨンはがんばりすぎていない?」
 ドンシクはそっとスニーカーを脱いだ。
 一歩、二歩、顔はジュウォンの影を見つめたまま、階段を昇り、腰を下ろす。肘を膝に置き、組んだ手に顎を置いた。
「いえ、そもそも僕がユヨンさんに甘えず、しっかり連絡しておけばよかったんです。電話番号しか知らなかったので、あの、直接かけるのも迷惑かと考えて……車に戻ります。プライベートに不躾に入り込むような真似をしてすみません。お二人が来られたら、一緒にまた訪ねますから」
「っふふ」
 ジュウォンがかわいらしいことを言って、ドンシクは堪えきれず再び笑った。
 ハン・ジュウォンは親しくなればなるほど、相手の私生活に立ち入ることに遠慮をする傾向がある。近づきかねて途方に暮れる。この言い方ならば、ドンシクとジュウォンはそれなりに仲が良いようだ。
「メールでもカトクでも教えますよ……今度ね。でも最近の若者は通話を大げさに考えるんですねえ。もっと軽い気持ちで電話をくれていいんですよ。それが番号を教える意味ってものでしょう。ああ、何か下心でもあって連絡しづらかったと言うなら別ですが……あるんですか?」
「したごころ……下心? な、あ、いやそんなことは」
「あはあ、そうですか?」
「そういった軽口はやめてください」
 まったく、お坊ちゃんはどんな「下心」について考えたことやら。やましくない下心だってこの世にはたくさんあるだろうに。
「じゃあ、この話はこれで終わりにしましょう。俺は今から服を着ますが、その後もここにいますよ。嫌でなかったら、あなたも……ミンジョンとユヨンが来るまでそこにいて。ふふ、無理に入って来なくていいです。俺は不躾だとは思わないけど、あなたの意志を尊重しますから、ね。ポーチの脇に椅子があるでしょう、それに座って待っていてください。それまであなたの、あなたたちの、話を聞かせてください」 
(俺は二人には会えないから、それまでは)
 ドンシクがいる「ここ」は、ドンシクを含めた人々の選択によって成り立っている。選んだもの、選ばなかったもの、選べなかったもの、選ぶ余地すらなかったもの、その結果のすべてだ。
 ドンシクは、ドンシクの二人のことを、そしてもういない人々のことを、これまでもこれからも考え続けるのだ。あの日、あの時、あの瞬間、ドンシクの行動がユヨンとミンジョン、二人にもたらした結果のことを、生きている限り、永遠に。
 あの夜、あの子に黙って家を抜け出さなかったら? あの夜、あの子が死んでいると決めつけなかったら?
(だから「そうではなかった」二人には会えないし、会わない)
「あ、ああ、はい。そうですね……」
 上手く誤魔化されてくれたらしいジュウォンが椅子に座る音がする。白いパーツが組み合わさったプラスチック製の椅子だ。レースのようにも見える、四人家族の名残の椅子。
 ジュウォンが深く座っているさまが目に浮かぶ。彼の目には古ぼけていても清潔に映っているのかもしれない。名残ではない現役の椅子として。
 ジュウォンはドンシクに何を話そうか生真面目に考えこんでいる。
 彼がいる世界には、いったい誰がいて、誰がいないのだろう。
(「ラビット・ホール!」)
 再度、閃く。
 ああ、ミンジョン。そうだ、そうだったな。これはきっとラビット・ホールの先のハン・ジュウォンだ。
(「兎の穴を見つけたい! ドンシクさん、探しに行こうよお。ねえ、手伝って!」)
 ミンジョンのためのラビット・ホール。
 不思議の国のアリスのアニメが幼いミンジョンのお気に入りだった。アリスのように兎の穴から別の世界に。それが無理なら別の国に。それも駄目なら別の都市に。
 大きくなったミンジョンはそうしてソウルへと一歩踏み出した。マニャンに戻ってきたドンシクとは反対に。
(「ドンシクさん、異動願いとか出せないの? あたしが卒業したらさあ、ソウルで一緒に暮らそうよ。就職がんばるし、それならあいつもたぶんいいって言うし……。ううん、別に許可なんか無くたっていい。必要ない。ここじゃないところに行こうよ。ねえ、これからも一緒にいよう」)
 あの子はずっと自分のラビット・ホールを探していたのかもしれない。ドンシクの手を取り、一緒にその先へと連れて行ってくれようとしたのかもしれない。
 ドンシクに新しい世界を見せてくれようとしたミンジョン。
 今日はドンシクが失った、ドンシクが失わせた人々が、そこここから顔を出す。それが「あちら」と「こちら」を繋いでしまったのだろうか。
「そうは言っても、あなたの方が僕よりもよっぽどお二人に詳しいのでは。あなたが知らないことなんてあるんでしょうか? それに、僕のことは……ああ、そうですね、僕のというか、僕の父の事件に関してなら、はい。……その、取り調べは遅々として進んでいないようです。弁護士の入れ知恵もあると思います。まだ、手足となって働く父の信奉者は警察にも財界にも多く、弁護士の口利きをはじめ、様々な便宜を図っているんです……すみません。いくら時効とはいえ、父が二十年前のあの夜の出来事を詳しく供述することはないでしょう……カン・ジンムクを野放しにして逮捕を妨害したうえ、彼を殺させてまで守りたかった秘密を、その動機のことを。ただ僕は、イ・ユヨンさんとパク・ジョンジェさんを飲酒運転で受傷させ、救護措置をせずに遺棄したうえ、逃走したのは父であると確信しています」
「でも、ハン・ギファンはそれを話すことはない」
 ドンシクは繰り返した。
 似ているようで決定的に違う彼の世界の話だが、人の中身まで変わっている訳では無いようだ。
(そうだろう、そうだろうな)
 ドンシクの知っているハン・ギファンは、そのことを話すくらいなら死を選びかねない。ドンシクがジュウォンと彼を問いただしたあの夜と同じく。
 彼にとって重要なのは罪の軽重ではない。一つの目的、彼の人生そのものとなった欲望にとって邪魔であるかどうかだ。治安総監である「ハン・ギファン」の人生に相応しいかどうか。それにそぐわないものは何であれ葬り去る。たとえ自分で起こしたことだとしても。
 ジュウォンが語るハン・ギファンも、一度は治安総監まで昇りつめたに違いない。そして、一番高い場所から同じように落ちたのだとしても、こちらの彼のようにそれが世間に知れ渡っていないのならば、彼は彼の思う「ハン・ギファン」の虚像を守るために何でもするだろう。それは信奉者たちも同じことだ。
(恩赦、復権……さらには政界進出も考えているか)
「……はい、そう思います。二十年前のあの日、あなたがカン・ジンムクと揉み合って逃げられるあいだに何があったのか。怪我をして意識不明のユヨンさんとジョンジェさんを発見するまでに何があったのか……あの人しか知らないのに! それがあなたたちを苦しめ、一人の連続殺人犯を二十年も放置することになったのに! 何も供述しようとはしない……当時、自首していれば、ユン・チャンホ法だってもっと早く成立したかもしれない。死なずにすんだ人がもっといたでしょう」
 ジュウォンの怒りがドンシクにまで届く。
 何度も何度も考えた「もしかしたら」の一つ、その怒りが扉という境界線を越えてやってくる。
(俺が起きていたら、ジョンジェがユヨンについて話していたら、二人で片割れを追いかけていたら、指を切られる前に現場に駆けつけられていたら、もっと早くジンムクを見つけられていたら)
 それでもパン・ジュソンには間に合わず、事故も起きてしまった。無数にある可能性、そのうちの一つの話だ。
「そこまであなたが背負う必要はないですよ。きっとユヨニもそう言ったろう、ミンジョンも」
 きっと言ったはずだ。ドンシクの二人もきっと。
「ユヨンさんはお忙しいのに色々とご尽力を……父の弁護士と会う時にも同席してくださいました。ミンジョンさんは、まあ僕はジフンさんのような子分ではないにしても、使い走りではあるようで、あなたの代わりに車を出させられています。ユヨンさんやジョンジェさんと出かけられる時とか、大人の男性が迎えに行った方が良い時とか。外事課の時と違い、監察課は時間の融通が利きやすいことを悟られてしまったせいです。ドンシクさんは出張が多すぎる、広域捜査隊なんかやめちゃえばいいんだと怒っていました。今日もあなたとナム・サンベチーム長に文句を言うそうですよ」
(外事課だったハン・ジュウォン。カン・ジンムクが関係する案件を調査していた? 野放しというのなら、奴は二十年のあいだ、韓国中に被害者を増やして……そこで外事課の彼と広捜隊の俺とが関わりを持った。逮捕された奴を、例のごとくイ・チャンジンが殺しでもしたか。ハン・ギファンはジンムクへの殺人教唆での逮捕と考えると、元々の事故に対する言質を取るまで追い詰めることはできなかったのか)
「仲良しですね。あなたとミンジョンは意外と気が合うと思っていました」
「本当ですか?」
 信じられないな、とジュウォンの小さな声。
 ラビット・ホールのその先。ドンシクの手を取り、違う世界を見せてくれるミンジョン。ドンシクの世界そのものを強引に変えていってくれたジュウォン。気が合うに決まっている。
「ジョンジェとも会っているんですか」
「はい。ミンジョンさんは彼に甘いですね。ユヨンさんも。離婚されても続けられる関係というのもあるのだと感じました。変わっていくなかで、変わらないものもあるんだと。少し羨ましく思います……ごめんなさい。また、失礼なことを言いました。おかしいな、なんだか今日は言葉が先走ってしまう」
「俺とあなたも仲良しですからね。そういうこともある」
「それは、素直に受け取っても良いのでしょうか」
 ジュウォンが低く問うた。含みがある物言いだ。
「さあねえ……あなた次第だと思うよ」
 こちらのジュウォンとドンシクは、たぶん彼らよりも親密だ。気安い空気が伝わってしまって、それに触発されたのだろう。
 その調子で諦めず食らいついてきてくれると、あちらのドンシクも喜ぶと思う。嬉しがって意地の悪い言動をとらないことを祈っておく。拗れるから。
 それにしてもユヨンとジョンジェが、一度は一緒になっているとは。不思議なような、納得するような変な気持ちだ。確かにユヨンは、ドンシクよりもよほどチャレンジ精神があった。
 多くの怪物たちが眠っている世界、起きなかった世界。今、このドアを開いたら、そんな世界が目の前に立ち現れる。
(ああ、でも、それでも。俺は、それを選ばないだろう。ラビット・ホールをのぞくことはしないだろう)
「あ」
 すとんと気持ちが凪いだその時、右太腿に激痛が走る。
「──っう」
 肌に残る傷跡をさすり、ドンシクは呻いた。
 古傷。銃創。イ・サンヨプ。ドンシクが広域捜査隊にまだいるのならば、おそらく彼もバーベキューにくるはずだ。ああ見えて、警察大学出のエリートだったから、もうどこかに異動している頃かもしれないが。彼も監察課にいたりして。ハン・ジュウォンと一緒に働いているイ・サンヨプ。笑える絵面だ。監察課の連中もいい迷惑だ。
 思考が散漫になる。瞼の裏に浮かぶ顔、顔、顔。
 一瞬の激しい痛みは去ったが、不規則に傷がちりちりと疼いた。
 あちらのドンシクにはこの傷はない。これは今のドンシクだけのもの。
(それでいい)
 傷口から流れ続ける血のなかに彼らを見るのは、自虐ではなく別のものだ。ドンシクがこの世界で生きていくために必要なものだ。おそらくこちらのジュウォンも同じだろう。
(だから俺たちは一緒に歩いている、歩いていける)
 唇をかみしめて息を細く長く吐く。吐き続ける。己の荒い息と漏れる声がうっとうしい。
「ドンシクさん、具合でも悪いんですか?」
 ジュウォンが焦ってドアを叩いた。彼の振り上げた拳が涙でぼやけた視界に映る。
 ジュウォンは周囲を見渡し──地下室へと続く別の入口を思い出したらしい──、その場を離れようとして、椅子を蹴り飛ばしたようだった。
 プラスチックがポーチを引っ掻く音がする。キイッと線を越えようとする音。
 ハン・ジュウォンがこちらへ侵入しようとする。
「今、そちらに行きますから! 動かないで待っていてください!」
「──は、駄目だ、ハン・ジュウォン!」
 痛みは治まらない。
 足から全身へと広がり、意識が遠のいて──。

*****

「「ドンシクさん?」」
 と、ドンシクの前後から同時に声が放たれた。
 ドンシクはきつく目をつぶる。両太腿に爪を立てた。傷痕、痛み、この世界に留まるための錨。そのまま大きく息を吸い、階段の上を振り仰ぐ。
「ジュウォナ」
 外の気配は、ドンシクが彼を呼んだ瞬間、掻き消える。
 ドンシクは目を開き、肩に頬をつけてハン・ジュウォンを見やった。
 こめかみから流れた汗を乱暴に拭う。
 ジュウォンはエプロンを身に着け、手には林檎を持ち、不思議そうにドンシクを見ていた。去年の誕生日にジェイたちから贈られたエプロンのフラワープリントが光って眩しい。
(「このブランドはもう韓国から撤退しちゃったんだから、レアだよ、レア」「いやあ、ハン警衛は本当に何でも似合いますねえ」「ビニール加工してあるから汚れちゃったら水で流せば大丈夫。その分ごわつくけど」)
 好き勝手を言うジファとジフン、使い勝手をとくとくと説明するジェイの姿が思い出される。
 マニャンで誕生日を祝われた方のハン・ジュウォンが立っている。
「ああ、見送りに来てくれたの? 俺のハン・ジュウォン」
(俺の、あなた)
 揺らいだ宇宙は確定する。ぽかりと空いた兎の穴は消える。
 ジュウォンが頬を薔薇色に染めた。
「な、んですか、そんな、急に。見送りというか、あなたが出ていく音がしないので何かあったかと思って……大丈夫ですか?」
「なあに、具合が悪くて倒れているかと思ったんですか? 昨日は大変だったもんね?」
 汚れた靴紐。ジュウォンが踏みつけて泥で汚した靴紐。気づいていたろうに目もくれず、ドンシクの舌に噛みつき、啜り上げたジュウォンの爪先のあとが残る靴紐。
「そうですよ」
 ジュウォンは渋面を作って言う。
「無理をさせてしまった僕が言うのもおかしいかもしれませんが、あなたの体調が心配なんです。昨日は確かに、その、盛り上がり過ぎました……」
「ですねえ。マニャンに来る前から俺たち浮かれちゃっていましたからね。季節外れの大雨で忙しすぎた、寝不足のハン・ジュウォン警衛の理性が飛ぶの、早かったな」
「忘れてください……」
 林檎が弾けそうなほど握られた。ドンシクお望みの朝食用の林檎。うっかり掴んで持ってきてしまうほど、慌てて駆けつけてきてくれた。
「燃料切れかもしれないです。あなたの豪勢な朝ごはんを食べる前に、動くんじゃなかったかな。ねえ、林檎を少しくれませんか。久しぶりにあなたの特技も見たいな」
「またですか? 久しぶりというほどでも無いでしょう」
 ジュウォンの声が少しだけ高くなる。
 声と言葉がちぐはぐだ。こいつ、それも期待して持ってきていたな。
 ジュウォンは林檎を道具なしに割ることができる。そのことを知ったドンシクがあんまり何度もねだったものだから、喜ばせたい時にはいつも林檎を持ち出すようになった。あちらのジュウォンも持ってきていたっけ。披露する日が近いといい。
「何回見ても飽きないよ」
「……しょうがないですね」
 ぱきん、とジュウォンがはにかみながら半分に林檎を割ってくれる。更にもう一度食べやすいように、ぱきん。二つの塊をドンシクに手渡すと、残りをエプロンと一緒に台所に置いて戻ってきた。
 おとなしく林檎を咀嚼するドンシク見て目を細める。
「食べ終わったら手を洗って、リビングに戻ってください。朝食とバーベキューの準備は、ほぼ終わっていますから。買い物は僕が行きますよ。足りないものもそんなにはないでしょう」
 お菓子はオ・ジフンさんにでも頼んでください、とすげなくされる。
 手にはカマロのスマートキー、奪おうとすればひょいと引かれる。二回、三回繰り返される戯れに、だんだん愉快になってくる。釣りでもやっているつもりか、ハン・ジュウォン。
「あなたのカマロじゃ入らないよ。甘いものをたくさん買いたいんです。いくらバーベキューとは言っても、ソンニョとドスのところの子も来るんだから。小さい子が好きそうなものも用意しないと」
「皆さん、色々と持ってくると言っていたじゃないですか。肉にお酒にチョコレートも。ファン・グァンヨンさんなどは事前に送ってくるほどですよ。食べきれません。それに、やっぱり運転は危なくないですか」
「失礼なことを言いますね。今日という日に年寄り扱いされるのは悲しいなあ」
 ああ、悲しい悲しい。抑揚をつけて土間に降り、ジーンズのポケットに手を入れ笑って見せる。取り出した車のキーはドンシクのもの。さあどうする。
 向かい合う彼の眉間の皺は深い。のばしてやりたくて指先を向けた。
 その手を掴んでジュウォンは叫ぶ。
「あな、た、のハン・ジュウォンが頼んでいるんですが!」
「おお」
 ジュウォンの精一杯の頼みごと。
 こちらを睨みつける眼差しを、震える唇が裏切っている。人に対する所有格など信じないジュウォンが、それでも声に乗せたもの。
(俺と一緒に歩いていく、あなた)
 ドンシクは手を握り返す。
「はいはい、わかりました。そんなに心配なら、俺と一緒に買い物に行きましょう。しょうがないから運転はあなたね」
「人の話を聞いていましたか?」
「あなたこそ、お誕生日様の言うことが聞けないのか」
 俺は、あなたと、一緒がいいんですよ。
 めったにないドンシクの我がままを聞いたジュウォンは口をぽかんと開いた。
 なんだか妙にかわいらしい。イ・ドンシクのハン・ジュウォン。
 そうしてドンシクは玄関のドアをあける。
 旺盛な若葉の緑が目を射った。扉の脇には誰も座っていない、古びた白い椅子が一つ、葉陰に彩られている。
 五月三十日の清々しい朝だ。

*****

「──ドンシクさん? イ・ドンシクさん!」
 ハン・ジュウォンは叫ぶと、蹴り飛ばした椅子を跨ぎ、急いで玄関ポーチの前の階段を駆け下りた。段を飛ばしてしまったせいで、柔らかい土につま先がめり込み、革靴をしたたかに汚す。
 閉じた扉の向こうからドンシクの呻き声がした。長く、細く、息を吐きだす音がした。
 焦りのあまり強くドアを叩いてしまったが一向に返事はなく、鍵を開けられる状況にないのかもしれないととっさに思い、家の側面にある扉から中へ入ることを考えついたのだ。扉の先には部屋があり、部屋の奥から階段を昇れば、ドンシクがいる玄関までたどり着ける。
 家のつくりからすると、地下室扱いになるだろうか。そこでドンシクと、カン・ジンムクが起こした事件について語り合ったことがある。特に父が事件に関係しているのではないかと疑い始めてからは、警察署などで話し合う訳にもいかず、そこを使う頻度が上がった。
 時折、オ姉弟やイ・ユヨンが来ていた名残を見つけたりもした。ソファにテレビ、楽器がいくつか置いてある、ドンシクが作った秘密基地のような温かな部屋だった……温かな部屋、だったろうか?
 庭の泥濘に足を取られる。革靴がさらに汚れた。革靴の泥、降りしきる雨、凍える寒さ。
 目の前を|兎《きおく》が横切っていく。
 ふ、とジュウォンの脳裏に拳銃を突き付けられながら、うっすらと微笑んでいるドンシクの表情がよぎった。
 震えるジュウォンが構えた拳銃に手を添え、撃つならばここだと囁いた不精髭の男がいた。確かに、あの冷えた地下室に、いた。寒々しい部屋でジュウォンを見つめ、早口でまくし立てる、赤い目をした男。ジュウォンの罪を暴いた男。
(「今までご苦労さま、ハン・ジュウォン警衛」)
(彼はそう言って背を向けて、途端に息が苦しくなって、僕は──)
 泥にめり込んだ靴が動かない。どうした、動け! 家に入れ! そう思うのに足の裏は凍りつき、勝手に息が上がっていく。 
 ざあっと風が吹き、新緑を透かした陽の光が、ジュウォンの身体を打ちのめした。
 ざあざあ、音がジュウォンの周囲を渦巻く。ざわざわ、ばさ、ばさり……、風と木とケナリの花が作り出す音がジュウォンをどこかへ連れて行こうとする。
「警衛!」
 その騒めきの隙間から、急に明るい声が飛び出した。
「わあ、ご苦労様です。ハン・ジュウォン警衛。どうしたんです、ずいぶん早いですね」
 背後から泥を踏む音がこちらに近づいてくる。
「……ドンシクさん」
 振り返った道の先には、風に髪をそよがせた男が一人立っていた。手には野菜が入っているのだろうか、膨らんだビニール袋をぶら下げている。
「何ですか? もしかして、ずっと俺を探していました? 携帯電話はどこにやったっけ……また不携帯って怒られるなあ。いや、少し奥の方で準備をしていたもんだから、あなたが来たことに気がつかなくてすみません。サンヨプの奴が急に来るなんて言い出したもんだから、食材を多めにね……でもあのカマロの爆音が聞こえなかったなんで、いよいよ耳が老いてきたのかな。嫌になるね」
 ねえ、そう思わない? くしゃりと笑うイ・ドンシクの顔によって「彼」の潤んだ瞳が遠のいていく。
「イ・ドンシクさん」
「はい、イ・ドンシクですよ……警衛、いったいどうしたんです? 具合でも悪いの?」
「それ、は、あなたではないですか……?」
「ん?」
 今のところ、あなたの車に気がつかなかった以外はいたって健康ですけど、とイ・ドンシクが朗らかに言う。
 嘘をついているようには見えない。からかっている風でもない。そもそもジュウォンが地下室へと走り出してから玄関から出てきて、庭の奥に行けるものだろうか。ジュウォンにそれと気づかせずに。
「いえ……何でもありません」
「ちょっと本当に大丈夫? 顔色が悪い」
 ドンシクがビニール袋に入れていたタオルが額に当てられて、ジュウォンは初めて自分が汗に塗れていることに気づいた。
 背中を虫が這うように汗が流れ落ち、その気持ち悪さに震えがくる。
「大丈夫です……大丈夫」
 ジュウォンは息を細く、長く、吐いていく。扉の向こうにいた男を真似て。
(あれは確かにあなただった。イ・ドンシクだった)
 扉越しに聞こえた声と目の前の彼の声は同じものだったし、会話の内容に齟齬も無かった。何よりジュウォンは、自分がイ・ドンシクという存在を、別の誰かと間違えることはしないと確信している。ただ彼は絶対に扉を開けず、妙に親し気だった。家族の話をねだり、ジュウォンが語る彼らの姿を楽しそうに聞いていた。それに刺激をされて色々なことを話してしまった。
(でもおそらく、彼は、あなたではないあなただ)
 彼はそれに気がついていたのだ。だからジュウォンと決して顔を合わせようとはしなかった。
 いや、もしかしたら扉を開けたとしても、会うことはできなかったのかもしれない。きっとそこには誰もいない、がらんどうの家だけがある。ジュウォンの知っている人々はすべてこちら側にいるのだから。おそらくあの世界のドンシクの傍にはもういなくなってしまった人さえも。
 彼は妙にイ・ユヨンとカン・ミンジョンの話を聞きたがっていた。パク・ジョンジェの近況に驚いていた。
(やめよう)
 考えても仕方がないことだ。ジュウォン以外誰も聞いた者はいないのだから、客観的に証明することはできない。良くて幻聴、もしくは妄想。胸におさめて話さない方が良い。
 あちらのドンシクが心配ではあるが、彼が言うところの「仲良し」のジュウォンもいるならば、あの状態のドンシクを放っておきはしないだろう。痛みに呻く赤い目の男をしっかり捕まえておくだろう。まだ「仲良し」になり切れていないこちらのハン・ジュウォンとは違って。
(「あなた次第だと思うよ」)
「イ・ドンシクさん」
 ジュウォンはドンシクと目を合わせた。
 ドンシクの五月の陽光に透けた瞳が瞬く。彼の瞳の色はジュウォンが思っていたよりも淡く、水分をたっぷりとたたえている。
「なに?」
「あなたが食べたいと言っていたので、輸入品になりますが、林檎を持ってきました」
「おお、ありがとう。嬉しいな。時期じゃないから手に入りにくいんだよねえ。さっそく一つ剥いて食べようか。早く来てくれたことだしね。準備も手伝ってくれるんでしょう」
 トートバッグから取り出した林檎をドンシクの手のひらに乗せ、ジュウォンはそのまま彼の手首を握る。そうして一歩、さらにドンシクに近づく。
「ドンシクさんは、林檎がお好きですよね?」
「ええ、はい。好きですよ」
 持ってきてくれてありがとうね。ドンシクが握られた右手首を気にせず笑った。少しは何か反応してほしい。
「僕の知り合いの生家が、釜山で青果店を営んでいるので、そちらから色々な種類の林檎を取り寄せることができるんです」
「……うん?」
「良ろしければ今度、そちらから林檎を取り寄せます。その、皆さんではなく、ドンシクさんのために。一緒にお好きな食事も作りたいと思います。改めて、僕にお誕生日のお祝いをさせてくれませんか」
「ハン警衛は料理が趣味だって言ってましたっけねえ」
「あと実は僕、林檎を素手で割ることができるんです……見たくはありません、でしょうか」
「はあ」
 突拍子もない提案に(自覚はある)、ドンシクが珍しくぽかんと口を開けている。
「それって、あなたの家でってこと?」
「まあ……、そう、なりますかね?」
「いや、俺が聞いているんだけど……」
 握ったドンシクの手首が、ジュウォンの手汗で湿ってきた気がする。
「あー!!! ちょっと、ドンシクさんに近づきすぎじゃない!? なに!? なにが起こっているわけ!!?」
 門の外でカン・ミンジョンが叫ぶ声がした。
 続いてミンジョンに肉を押しつけられたイ・ユヨンの良く通る笑い声。は、な、れ、ろー! と、ミンジョンの大声がどんどん近づいてくる。
 彼女によって引き離される前に、ジュウォンはドンシクのもう一方の手首もまとめて握り締めた。祈りを捧げるような、あるいはまるで容疑者を逮捕するような格好になる。
「どうでしょうか」
 木々の葉陰が映しこまれた瞳をのぞきこめば、くいっと彼が眉を上げた。風が吹き、ドンシクの頬にも若葉が影を落とす。同時に五月の光がちらちらと彼の髪の毛の先で踊った。
 と、勢いよくドンシクの顔が地面を向いた。ふ、ふふ、ふ、ふっふふふ。揺れる身体の振動が、握った手を通してジュウォンにまで伝わってくる。
 揺れる、揺れる。揺れてぴたりと止まった。
「イ・ドンシクさん……?」
 ドンシクの頭がのろのろと上がっていく。
 前髪がかかる弓なりに撓んだ目からすっと通った鼻筋、つるりとした頬とその下の口元が現れ、そして、
「素敵な誕生日プレゼントだね」
 そう言って彼は、口角を左右対称にゆっくりゆっくり引き上げた。
 楽しそうな、何かを企んでいそうな、ハン・ジュウォンがイ・ドンシクと出会ってから、初めて見る表情で。

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