ミリオンダラー・マン(十二少→→虎)
タイガー兄貴は未成年の俺を龍兄貴から引き取って育ててくれた恩人だけども、保護者として理想的だったかというと正直言ってそうでもなかった。というより、子どもを引き取ったあとも自分の生活を変える気は一切なかった。なんなら同居人がいるのならその人に合わせて自分の生活パターンを変えるものだという発想自体がないみたいだった。相変わらず黒社会のボスだったし、相変わらず独身貴族だった。仕事なのだろうが、夜が遅く、朝も遅かった。俺が学校に行く時間に起きていたことはまずない。朝の支度は勝手にやって勝手に家を出た。放課後家に帰っても誰もいなかった。普通の「親」ならそういうことはすまい。だが俺も普通の親のことは知らなかったので特に思うことはなかった。玄関を出るとき、兄貴の寝室に向かって「行ってきます」と声をかけると、「……おう、」と返事があった。たった今寝たばかりだろうに、その返事だけで俺には十分だった。
女も平気で連れ込んでいた。自分の家なのだから当たり前なのだろう。女たちは一晩だけのこともあったし長く(といっても半年くらい)続くこともあった。たくさんの女たちは例外なく華やかで、綺麗で、脂粉や香水のいい匂いがした。化粧も巻き髪も完璧で、爪の先までつやつやしてて、そして例外なく、俺に優しかった。家を訪れるたびに俺にも珍しい菓子なんかの手土産をくれる女、会うたびに小遣いをくれる女がいた。兄貴の預かり子である俺に媚を売って点数を稼ごうという魂胆があるいはあったのかもしれないが、そうだとしても親切なことに変わりはなかった。「煙草よりマシなもんをやるよ」と言って俺の口に棒付きキャンディを突っ込んでくれた女、「これ、お客さんにもらったんだけど、あんたが好きな選手じゃなかった?」とベースボールカードをくれた女、小遣いをやるときに「ねえ、お願いだからこの金でドラッグや銃を買わないで。それが約束できるならこの倍額あげる」と真剣な顔で言った女。兄貴の好みのタイプがそうなのか、それとも夜の女というのはそういうものなのか、みな情が深く、世話焼きで、小さくて可愛いものが好きだった。つまり俺みたいなのが。
兄貴の恋人はひっきりなしにコロコロ変わったけど、一度に二人と付き合っていたことはない、と思う。家に連れて帰るのはいつも一人だけだった。それは兄貴なりの誠意のようなものだったのかもしれない。たった一晩の恋人でも二股かけるとか、そういうことはしなかった。たぶん、だから女たちは兄貴のことが好きだったんだと思う。どんなに短くても、真剣な恋だったと思うから。
だけど兄貴は絶対に、そう、絶対に女たちを家に泊まらせることはなかった。どんな夜中でも女を家まで送って行った。女の私物も一切家に置かせなかった。それは徹底していた。そういう人だった。ゾッとするくらい冷たいところがあった。それは情の深さと完全に両立していてごく自然に兄貴に備わっているものだった。単純だが強固な壁があり、その中に入れる者はいなかった。俺も、たぶんその一人だった。
★
いつだったか、洗面所で新しい石鹸を探していたとき、洗面台の下の扉の中のゴミ箱の中をふと見てしまったことがある。そこに捨てられていたものに俺はぎくりと身体をこわばらせ、その場を動けなくなったのをよく覚えている。それはピンクの歯ブラシだった。たぶん、女が置いていったものなんだろう。忘れたか、あるいは故意に置いていったのか、とにかく俺のものでも兄貴のものでもないそのピンクの歯ブラシはゴミ箱に無造作に打ち捨てられていた。俺はその場に立ちすくんで、ずいぶん長いこと、それをぼんやり眺めていたような気がする。あのとき感じた感情をうまく言い表せない。さびしさ、に一番似ていたけど、それも少し違うような気がする。
なんだったんだろう、あれは。人のものを平気で捨てる兄貴の癇性な気性への恐れ、あんなに親切な女に対する仕打ちへの義侠心、わずかな共感(うっとうしいことをする女もいたものだ、と正直思った)、何より、あんなに愛していたのに、と気が遠くなるような思いがあった。酔って陽気に騒ぐ二人が夜中に騒々しく帰宅するのに何度も睡眠を中断されたのに。リビングで飲み直して、ベッドで嬌声をあげて、あんなに仲良く、楽しそうで、やかましかったのに。なのに捨ててしまうのだ。ほんの少し、踏み込んできただけの女を、こうやって、いとも簡単に。このひとは、そういう人なのだ。それを思い知らされた。おそろしかった。俺もいつかこんなふうに、無造作に、なんの未練もなく、簡単に捨てられるのだ、と思った。兄貴には、誰にも入れない世界がある、そう思っていた。誰にも入れないのならばどんなに良かっただろう。
★
失敗した、と思った。学校ではなるべく目立たず、ひっそりとしているつもりだったのに。
学校は楽しくはなかった。けれども兄貴が「学校くらい出ておけ」と言うから仕方なしに通っていたのだ。教室の隅で息をひそめて、ひたすら卒業を待っていた。兄貴に迷惑がかかるようなことだけは絶対にすまい、と決めていた。なのに。
テスト中に視線を感じて顔を上げたら、カンニングされてることに気付いた。「何見てんだよ」と小さな声で咎めたつもりが、声は意外に大きく響き(誰も喋っていない教室なのだから当たり前だ)、試験監督がそれを聞き咎め、そのクラスメイトは試験の残りを没収され単位を落とした。その日の放課後、仲間を連れたそいつに襲撃されたのだ。
たいして喧嘩の経験もない坊ちゃん学校のガキどもなんか怖くもなんともなかった。ただ、人数がいたので一息にけりをつける必要があった。俺に恨み言をつらつらと並べ立てる主犯の元クラスメイト(なにを言っていたかは忘れた、というか、聞いてなかった)の顔を眺めながら俺はもっとも効率的に全員をやるルートをシミュレーションして、ボスを徹底的にやって残りの面子の戦意を削ぐのが一番得策だ(「カンニングをチクられて退学になって逆恨みしたバカ」のためにリンチに参加するようなバカはそうそういない、みんな付き合いで集まっただけだ)という結論に達したので、そうした。足元の石を拾い、バカの口に思い切り叩きつけてやったのだ。こういうのは派手で、残酷なほどまわりの戦意を奪う。前歯が折れ血が溢れて吹き飛ぶ元クラスメイトと、青ざめて立ち尽くす残りの連中を睨み俺は「まだやんの?」とだけ聞いた。蜘蛛の子を散らすように、誰もいなくなった。
だけどまあ、当然のことながら学校はそれを問題視して、保護者が呼ばれることになった。俺の保護者というのは当然、タイガー兄貴のことだ。俺はそれを一番に恐れていた。目立たぬよう、誰にも関わらず、ひっそりとやってきた。なのにとうとうやってしまった。兄貴が学校に来たのだ。来てくれたこと自体に驚いた。学校からの呼び出しなんか、無視しようと思えばできたのに。
シュールな光景だったと思う。泣く子も黙る廟街を仕切る黒社会のボス、白いスーツとサングラスで決めたどう見てもカタギじゃない迫力の男が(校内ではサングラスを外してください、と注意した担任は後悔してた。片目がないからな、サングラスしてた方がまだ穏やかな容貌をしてる)、生徒用の椅子に座って担任の説教を黙って聞いていた。俺はその横でひたすら小さくなっていた。かっこ悪い、こんなの、こんな恥を兄貴にかかせるなんて。こんな人にこんなしょぼい理由でこんなとこまで足を運んでもらうなんて。
だけど兄貴は黙って担任の説明をすべて聞き終え、それから口をひらいて言った。あのかすれた声、誰にも真似できないあの声で。
「お話は分かりました。だけどなにが問題なのかわかりませんね。喧嘩を売ったのはあちらさんでしょう。こいつは火の粉を払っただけだ」
担任は困惑していた。そりゃそうだ。手を出したのは俺なのに。
「ですが、あちらは前歯が全て折れる重症で……」
担任が示す被害者の顔写真をちらりと眺めた兄貴は鼻で笑ってさらに言った。
「歯並びが悪そうな顔してる。いい機会だから入れ歯にしたらどうです。その方が男前が上がるでしょう。……十二、帰るぞ」
話は済んだ、と言わんばかりに席を立つ兄貴に俺も慌てて立ち上がる。さらに何か言おうとする担任に、兄貴はサングラスを外してひくい声で言った。
「あちらさんには、俺が九龍城砦にいい歯医者を知ってるとお伝えください。料金もまけておきます。慰謝料代わりに」
有無を言わせない迫力で兄貴はそう言い、俺を連れて教室をあとにする。ああ、と俺は担任をちらっと振り返って思う。ああ、ここまでだな、この学校も。
★
「乗らねえのか?どうした」
車のドアを部下に支えられたまま、兄貴が俺を振り返る。だけど俺は足がすくんで動けなかった。恥ずかしくて情けなくて、兄貴の顔がまともに見られなかった。十二、と兄貴が重ねて俺を呼ぶ。口の中がカラカラだったけど、俺はようやく言葉をひねりだした。
「……めんなさい、おれ、」
ちいさな声だったのに兄貴にはきちんと聞こえたみたいだった。ため息のような音がうつむいた俺の首筋にガラスの破片みたいにグサグサ刺さった。放課後の校庭で生徒が遠巻きに俺たちを見てる。兄貴はもう一度ため息をついて再度俺を促す。
「いいから乗れ、話は中だ」
それは命令だった。俺は慌てて兄貴のあとに車の後部座席に乗り込む。これ以上兄貴をイライラさせたくなかった。ドアが閉まり、兄貴の部下が運転席まで回り込む、永遠みたいに長い時間が過ぎて、車が走り出す。車内はしんとしてる。俺は勇気を振り絞って、もう一度、兄貴に詫びる。
「ごめんなさい、兄貴、おれ……」
「……謝ることはねえよ。勝ったんだろ?六人相手に、大したもんだ」
兄貴の声は少しも怒っていなかった。だけど、だからこそ俺は自分が惨めで仕方なかった。喉の奥から熱い塊が込み上げてきて、俺はそれを飲み込みそこねた。窓の外を眺めていた兄貴が、驚いて俺を見た。
「おい、泣いてんのか?」
「……ごめんなさい、ごめ……」
繰り返すことしかできなかった。決めてたのに。この人に引き取られたその日から、この人を煩わせまいと。迷惑になるようなことは絶対にしないって。なのにどうだ。
「ごめんなさい、兄貴、ごめんなさい」
「一体何を謝ってんだお前は」
心底わけがわからない、という顔をする兄貴を見て、堪えていたものがあふれ出すのを感じた。ずっと言いたかったことが。
「おれを……すてないで……」
「捨てるって、お前……」
涙が止まらなかった。俺を捨てないで、兄貴。俺に失望しないで。捨てないで。あの歯ブラシみたいに、昨日まで可愛がってくれたのに、なんの未練もなく、無造作に、おれを。
べそべそ泣く俺を兄貴はしばらく困惑して眺めていた。手に負えないみたいだった。その気配がさらに俺を追い詰めた。俺がますます泣くので兄貴はようやく口を開いた。
「捨てねえよ」
「……あにき……」
きっぱりと、兄貴はそう断言した。
「捨てねえよ、十二。お前は大切な義兄弟から特別によろしくされた、大切な預かりもんだ。捨てたりしたら龍に合わせる顔がねえ」
……その言葉を聞いて俺はほんとは喜ぶべきだったんだろう。だけど、俺は、泣きながら、ほとんど生まれて初めて、龍兄貴のことを、憎い、と、思った。
あんたがその強固な壁の中に誰も入れないのならそれでも良かった。その他大勢の一人でも、あんたの側にいられるなら、それで良かった。だけど違う、龍兄貴は違うんだな。あの人は、壁の向こうの人なんだ。あんたにとって。歯ブラシを置くのを許された人、捨てられない人、大切な人なんだな。
生まれてから一番悲しかった。龍兄貴が憎かった。それ以上にタイガー兄貴が憎くてしょうがなかった。俺も入れてよ、とほとんど渇望するように願った。俺も入れて、その壁の向こうに。あんたの世界に、俺を入れて。
はっきりわかった、俺は、この人のことが、
「……どうもおまえは、ガキにしちゃ遠慮がちだな」
泣きじゃくる俺の頭をぽんと叩き、兄貴は快活にそう言った。俺の気も知らないで。
「なんか溜め込んでんな。言ってみろよ。俺だってガキを育てるのは初めてだ。わからねえことばかりだよ。してほしいことがあんのか?言えって」
兄貴のしゃがれ声は優しかった。頭に置かれた手もあたたかくて、俺はますます泣いた。ダムが決壊するみたいに、我慢してたことが次々に口に出た。
「……俺が学校にいくときは、いってらっしゃいって言って」
「……わかった、起きる、努力する」
「帰ってもおかえりって言って」
「……仕事でいねえかもしれねえが……なるべくいるようにする。ほかには?」
「女連れ込まないで」
「……なんでだ、意地悪されたか?」
俺は顔を上げてぶんぶんと首を振る。それだけは否定しないと、女たちの名誉のために。
「ぜんぜん。みんなすげえ優しい」
「じゃあなんでだ」
「……あんたたちの声、うるさくて眠れない」
「……そりゃ悪かったな。俺はあのときの声がでかい女が好きなんだよ」
眠れないのは本当だ。あんたがほかの女とよろしくしてるのを聞いて、みじめで、悲しくて、それで眠れないんだよ。
「わかった、あの家には誰も連れ込まねえ。それでいいか?」
よくない。あの家じゃなくてもどこでも良くない。でもそんなこと言えない。俺は必死でがくがくと頷く。兄貴が約束してくれた。でもほんとは足りない。ぜんぜん足りない。遠慮がちなんてとんでもない。兄貴、俺は本当は、すげえすげえ欲張りなんだよ。
ピンクの歯ブラシが脳裏にちらついて仕方なかった。絶対に、と俺は思った。絶対に捨てさせない。俺のこと、あんなふうには。いつかあんたの壁の中に行く。龍兄貴より近くに、俺の居場所を作ってやる。
俺は車の後部座席で兄貴の膝の上で、頭に兄貴のてのひらを感じながらいつまでもべそべそと泣き続けていた。兄貴はそんな俺の頭を、家に着くまでずっと、ずっと撫でてくれていた。
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